今月の法話(2007年12月) 

* 呼び声を聞く  
2007年11月5日 淨教寺会館 報恩講 
梯 実円(かけはし じつえん) 和上 ご法話より(一部分)

*順番が大事
お浄土がわかったら信ずる。仏様がわかったら信ずると思っていたら間違いです。これでは何時までたってもわかりません。
阿弥陀様が「わが国お浄土に生まれるんだよ。そう思ってくれよ。」と、おっしゃたら、その阿弥陀様の仰せを素直に受け入れるんです。受け入れたらお浄土が味わえてくるんです。
何でも、後、先どちらでも良いと言っていたらいけません。順番があります。着物を着てから帯を締めるでしょう。好き好きだから、帯締めてから、着物着る。これではいけません。これでは格好つきません。やはり順番というものがあります。それと一緒です。
阿弥陀様の願いを聞き入れること。これが一番最初のことです。「私の国に生まれるんだよ。そう思ってくれよ。」と、阿弥陀様が仰るんですから、こちらは「ありがとうございます。じゃあ、そう思わせていただきます。」ということで思えばいいのです。
「どのようにしたらお念仏が出来るようになりますか?」と、質問を受けることがありますが、「そんなふうに思っている間にお念仏申させていただいたらいいのですよ。」と、お答えしますが、どうしたらお念仏出来るかと思う暇があったら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申したら良いのです。
「どうしたらお浄土へ生まれると思えますか?」「それは、本願を聞くだけです。私の国へ生まれるんだよ。そう思いなさいよ。と仰いますから、仰せの通りに、ありがとうございます。では、生まれさせていただきます。」阿弥陀様に願われて、願い取られて行くのだから、それを疑いなく受け入れることです。私の人生に1本スーと通る本当の線が出てきます。

*ありがたい人生
他人の言葉だとグラグラ動きます。自分の思いもグラグラ動きます。お浄土に生まれるかどうかということを自分と相談したらいけません。「どうも私はそう思われません。どうしたら思われますか?」そんなもの思えるはずがありません。自分と相談している限りは。これは必ず阿弥陀様の仰せを聞くことです。阿弥陀様がお浄土に生まれるんだよ。と仰ったら、「ありがとうございます。そう思いとらせていただきます。」と、おっしゃる通り受け入れればいいのです。
そうしますと、「あぁ!私はお浄土に生まれていくんだな。死んで行くんだと思っていたけれども、死ぬのでなくて、生まれて行くんだな。」と、こう思うようになるでしょう。
お浄土に生まれて行くのだと思いますと、ありがたいことだなと思いますね。逆にこれ死んだら仕舞いだと思ってみたら、何だか人生なんてアホみたいなもんだな。という結論が出てきます。いろいろ苦労して生きてきたけど何もかも死んだら仕舞いと思ったら、アホらしいことや、寂しいことや、悲しいことやとこれで終わってしまいます。
アホらしいことや、寂しいことや、悲しいことやという結論が出るような人生観が貧しいのではないですか?そうじゃなくて、ありがたいことですね。という結論が出てくるような人生観を持てばいいのです。その人生観は何かというと、阿弥陀様のご本願に救われてお浄土へやっていただくのだ。こう思えばありがたいことだなという事が自然と出てくる。自然に出てくるように生きたらそれで良いのです。
*お浄土が開けるご縁
私が往く世界の内容を知らせてもらって、仰せを聞いて、聞いたお浄土の内容を知らせてもらうので、自分で考えて、お浄土をああだろう、こうだろうと考えあげたお浄土は人間が描き出したお浄土です。そんなものは影みたいなものです。
ですから、阿弥陀様の仰せをまず受け入れる。これが第1です。本願のまことを受け入れる。そうすると本当の仰せを聞いたのですから、仰せの通りにお念仏申す、そういう人生が開けてくるわけです。
この人生は、お浄土に生まれて往く人生です。常に自分の人生を受け入れていく。
そうしますと、いつ死んでも良いということにはなりません。生きているということは、やはりいつまででも生きていたいという、そういう心というのは大事なのです。おそらく生に対する執着が無かったら当の昔に死んでいますよ。人生というものは、大概いろんな事が起こります。もういやだと思ってパッと死んでしまったらそれはもう生きていません。生きていたいという思いも大事なものですから与えられているのです。だけどあまりそれに邪魔されてもいけません。しかし無くするわけにもいきません。生きている限り生きたいという気持ちがあるのは当たり前のことです。だからいつ死んでもよいと覚悟したいと思うのはちょっと無理なことです。そんな無理なことは思わなくてもよいのです。

だけど、いつ死んでもお浄土や。そこはお浄土や。死は浄土が開ける御縁である。これだけは味わっていたらいいと思います。死にたくないけども死はお浄土が開ける御縁として与えられているのだから、これもありがたいことだと受け止めればいいのです。死にたいとは思いませんよ。病気になったらすぐに病院に行きますからね。いつ死んでもいいということにはなりません。凡夫はそういうわけにはいきません。死ぬまで生きていたいと思います。これはこれで結構なことです。だけど、いやいやながらでも死んだらお浄土が開けるんだ。そう阿弥陀様に約束していただいている。これはありがたいことだ。そして、生きるのは仏様の御名を称えながら生きさせてもらう。そして御名を称えておりますと自分勝手な考えでものを考えていくのは「ちょっと待てよ。」阿弥陀様はどう考えなさるか?阿弥陀さまがどうご覧になるか?ということを聞かせてもらおうという事になりますから、こころがスーと違った方向に開けて行く。そういう御縁がいただけます。これがお念仏のよび声に呼び覚まされるということなのです。「あぁ、また迷っていたな。」迷っていたと思ったら、本当の言葉を聞けば良い。仰せを聞けば良い。教えを聞けば良い。そういうことになります。