平成26年 12月 法話

淨教寺 大和郡山 跡地 訪問 

先月号で淨教寺開創770年の記念に歴史をふり返りました。その中で以下の項目を記しましたが、城村の場所、九条の場所は定かではありませんでした。この度「城村の跡地」であろう場所が特定されましたので確認すべく、11月22日(土)大和郡山市城町を訪ねました。

◎八尾から大和郡山西城村(にしじょうむら)、そして九条の里に移転
享禄3年(1530年)11世行心(ぎょうしん)のとき、称仏名院を河内から大和国添下郡富ノ庄城村(じょうむら)に移転する。この時のご本尊が現在も浄覚寺というお寺にご安置されているということです。
永禄2年(1559年)12世行春(ぎょうしゅん)の時、九条の里に移し、この時から山号を「九条山(くじょうざん)」と言う。この後、ご本山の顕如上人、石山本願寺ご籠城のみぎり、行春、河内・大和の門徒を連れて無二の忠節を尽くした功績により天正9年(1581年)石山本願寺お内仏のご本尊を拝領する。また、天正19年(1591年)ご本山が京都の現在地に移転した折に、顕如上人より寺号を「称仏名院(しょうぶつみょういん)」から「淨教寺(じょうきょうじ)」へと改めるご染筆を頂戴した。 (法のたより143号より)

その当時のご本尊がご安置されているとみられる浄覚寺の北東に位置する小高い丘の上にその場所はありました。現在は淨教寺の門徒のご親戚の「佐野家」の住宅になっています。当日は御当主の佐野さんが出迎えてくださり、いろいろとお話しを聞かせてくださいました。そのお話しの要点は次の通りです。
①今現在は田んぼになっている富雄川ぞいに家があったが、その当時の川は氾濫することが多く、その影響で少しずつ高いところを求めて移転してきたようだ。
②現在の田んぼの改修工事をした折に、地下から消し炭や瓦などが出土している状況から川の氾濫で水没し土砂が堆積したであろうことが推測される。 
③跡地の西側には、古い石や礎石に使われたような石が残っている。確認できた年号には「永正十年 梵字 九月」(永正10年は西暦1513年)と刻印されたものがあった。 
④現在はアスファルトの坂道になっているが、石段であったようである。牛や荷車を通すのに階段ではよくないので坂道にした。



淨教寺跡地に建つ佐野家前にて


 永正十年九月の刻印のある石



これらの話しをお聞きして、次は淨教寺の元のご本尊であろう阿弥陀如来立像がご安置してある浄覚寺様に案内していただきました。細い道を通り、家の路地を通り抜けていくので外部から来たものにはなかなか分かりにくい場所でした。御本堂に参拝させていただき、ご本尊と約500年を経て対面させていただきました時の感動は言い知れぬものがございました。金箔が貼られたお体に截金(きりかね)がほどこされた尊いお姿の「阿弥陀如来立像」でした。



浄覚寺様ご本堂前にて  佐野さんと(右)


 浄覚寺様に残る元淨教寺ご本尊


何故その当時のご本尊がここにご安置されていたのでしょうか?疑問であります。
考えられることは、「法のたより143号」の文中に、九条の里に移ってから石山合戦の功労により石山本願寺のお内仏のご本尊を拝領したとあります。そのため今までのご本尊を末寺の浄覚寺に預けたのでしょうか?拝領のご本尊は昭和11年の本堂焼失とともに灰塵に帰してしまいました。

また、浄覚寺様から徒歩で15分ほどの所に「奈良県立民俗博物館」があり、奈良県下の民俗資料をはじめ住宅棟が移築して保存されています。そのうちの「臼井家」(高取町の米問屋の遺構)の中に、淨教寺ご門徒宅に有った「江戸時代の浄土真宗の特徴をのこした希少価値のお仏壇」を寄贈したものがご安置してあるので見学しました。ぜひみなさまもお近くに行かれたらお立ち寄りください。