今月の法話      平成30年 1月

慶 春  無 量 壽

人身受けがたし、いますでに受く。
仏法聞きがたし、今すでに聞く。 
南無阿弥陀仏

今年もみなさまとご一緒にお聴聞に
いそしませていただきましょう。

曠劫(こうごう)多生(たしょう)のあひだにも  出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき
本師(ほんし)源空(げんくう)いまさずは   このたびむなしくすぎなまし
 (『正像末和讃』源空讃)

意味:果てしなく長い間、 生れ変り死に変りし続けてきたものは、 迷いの世界を離れさせる本願のすぐれたはたらきを知らなかった。 もし源空聖人(法然聖人)がおられなければ、 このたびの生涯もむなしくすごしたことであろう。

と、親鸞聖人は感慨をもって恩師、法然聖人との出(で)遇(あ)いを振り返っておられます。人間に生まれることの尊さ、またお釈迦様の教え、南無阿弥陀仏のお念仏の教えを聞かせていただくことができた不思議さを思わずにはおれません。

 「あう」という字も、たくさんあります。「会う、逢う、合う、遭う」などの漢字があり、
「会う」は、知人に会う、人と会う場合。
「逢う」は逢引きなど、親しい人とあう場合。
「合う」は、気が合う、川が合流するなど、人以外のものがあう場合。
「遭う」は、事故に遭う、災難に遭うなど、好ましくないことにあう場合。に使われます。

「遇う」という字には、思いがけず、偶然出くわすという意味がありますが、親鸞聖人は、

「遇」は「まうあふ」といふ、「まうあふ」と申すは本願力を信ずるなり。

と、『一念多念文意』に示されています。

「もうあう」は「あう」の謙譲語「あいたてまつる」の意味で、同じ意味で「値う」という字も『教行信証』の「総序」のご文に使われます。

ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)ひがたく、真実(しんじつ)の浄信(じょうしん)、億劫(おくこう)にも獲(え)がたし。
たまたま行信(ぎょうしん)を獲(え)ば、遠(とお)く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ。


意味:ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。

この「値(もうあ)う」と「遇(もうあ)う」で、表題の「値遇」という言葉になります。
「値遇」とは、前世の宿縁によって現世で出あうこと。特に、仏縁あるものにめぐりあうこと。を言います。

今年は、明治元年(1868年)から150年。フェノロサが明治21年(1888年)淨教寺本堂で「奈良の諸君に告ぐ!」との講演をしてから130年。

親鸞聖人が御年76歳(1248年)で『浄土和讃』『高僧和讃』を著されてから770年。86歳(1258年)にて『正像末和讃』を著されてから760年の節目の年であります。

上記の節目の出来事を一つのヒントとして、親鸞聖人が法然聖人との素晴らしい出遇いをされたように、一人ひとりが仏縁を深めさせていただく大きな学びの機会としてみてはいかがでしょうか?