今月の法話      平成30年 7月

はす(蓮) 仏教讃歌  

「みめぐみの」
  作詩 河合(かわい)恒人(つねと) 作曲 古関裕而(こせきゆうじ)

一、みめぐみの ひかりにぬれて  蓮池(はすいけ)に花は ましろく
   みほとけの いのちかおりて  現世(うつしよ)に
   うつくしき うつくしき   花はひらきぬ

二、まろき虹 空にかかれる   
   七色(なないろ)の橋を わたりて
   みほとけの み手にいだかれ  はるかなる
   うつくしき うつくしき   国をめぐらん

三、わがこころ うれいなき花   
   永久(とことわ)の母を 慕(した)いて
   みほとけの み名となえつつ  もろともに
   うつくしき うつくしき   道をあゆまん



   二つ同時に咲いた 蓮の華


        スイレンにつどう虫


この歌は、河合恒人さんという方の作詞です。河合さんは何を隠そう進学予備校「河合塾」の学長だった方です。

河合恒人さんは、大正14年12月11日名古屋市生まれ。昭和13年愛知一中(現・旭丘高校)入学。その後、昭和15年肋膜炎発病。翌16年肺結核を発病され学校を中退し、名古屋の大空襲で母の実家がある広島県世羅郡に疎開します。

大喀血で生死を危ぶまれますが療養し回復。終戦後、昭和21年難病の腸結核を発病するも父、逸治さんの懸命の努力のお陰で、当時入手困難な特効薬ストレプトマイシンにより命を救われたそうです。
当時の医学では絶望的といわれた「腸結核」を発病し、病床に臥していたころに書かれたものがこの「みめぐみの」でした。

昭和32年名古屋商科大学第一回卒業。学校法人河合塾に勤務。昭和39年河合塾学長就任。平成18年退職、という経歴をお持ちの方です。

河合さんの書かれた著書「汝自らを求めよ」(上下巻)の中に「みめぐみの」を作詞した状況が書かれています。わずか20歳で死を宣告され、絶望の病床にあって、たまたま東本願寺が仏教讃歌の詩を一般公募しているのを知り、応募したところ見事入選し、有名な作曲家・古関裕而氏が作曲し、美しい曲に出来上がったというのです。

長く続く闘病生活は、精神的にも苦悩の連続だったわけですが、その中で唯一、歌を残せたことは幸せだったと書いておられます。わずか20歳でこの世からいなくなることで何も残せなかったという後悔がある中、この歌はきっと長く歌い継がれるに違いないと希望を持たれたそうです。

「詩と人生―古関裕而さんを偲ぶ―」の中にも、「死のどん底の中からほとばしり出た“心境”であり、生まれでた生命の“叫び”であった」と、記されています。

まさに、この詩にはお浄土の荘厳が美しく描写され、この現世を生き抜いていこうとする決意が感じられ、しかもそれが阿弥陀如来さまの大いなるみ手に抱かれているという信心の生活から自然にあふれ出ているように思われます。

作曲の古関裕而(1909~1989)さんは、福島県の生まれで、作曲を菅原明朗氏、山田耕作氏に師事し、80歳で亡くなるまで、数々の大衆に親しまれる歌を作曲しました。
戦後は、「長崎の鐘」「君の名は」など独特の哀調を帯びた曲や、「高原列車は行く」などの軽快で明るい歌も作曲しました。1964年の「東京オリンピックマーチ」はよく知られています。また、仏教讃歌には「しんらんさま」の名作があります。



   可憐な沙羅(ナツツバキ)


   フレンドリーなシオカラトンボ