今月の法話      平成30年 10月


恩 徳 讃 (おんどくさん) 

「如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳おん(どく)は 身(み)を粉(こ)にしても報(ほう)ずべし
師主(ししゅ)知識(ちしき)の恩徳おん(どく)も 骨(ほね)を砕(くだ)きても謝(しゃ)すべし」
                             (正像末和讃 親鸞聖人)



            親 鸞 聖 人


「如来大悲」とは、阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」のお名号のことです。仏様の智慧のはたらきが南無阿弥陀仏というお念仏となって、「心配するな。必ず護り、救うぞ。」との呼び声となって、私のもとに届いて下さって、いつも寄りそって下さっています。
その智慧のはたらきのお名号がこの私のもとに届いてくださっていたのか。と、いのちのある限り、力の限り、身を粉にするほどに、骨を砕くほどに、精一杯、ご恩に報いていかないといけないという意味です。

「報ず」とは、「報いる」ということです。「むくいる」ということは、「受けたものと同じ程度のものをお返ししていくこと」を「報いる」というのです。

じゃあ親鸞聖人は、阿弥陀さまから頂いた大きなご恩と同じものを返していかなければならないと仰っておられるのでしょうか?・・・違います。違います。
親鸞聖人の仰られた「報いる」を仏様から頂いた大きなご恩を少しでも返していかなければならないと思っているならば、それは、私の「うぬぼれ」であり、「驕り高ぶり」です。
仏さまから頂いた大きな大きなご恩を、どうして返していくことが出来ましょうか?返すに返せないほどの広大無辺のご恩が、この私のいのちにずっと届けられてあったのです。お返しすることなどとてもできません。
「報」は、もう一つ「しる、しらす」という意味があります。「淨教寺時報」の「時報」とは、「お寺の様子をしらす」という意味ですね。「返していく」という意味ではありません。
どれほど私のいのちに、阿弥陀さまの慈悲が届いておったかを「知らされ」、仏さまのみ教えに「知らされ、気づかせていただく」ということです。それが「報ず」ということです。

87、88歳の親鸞聖人がどれほど広大無辺なご恩の中にこの私は、お育てあったであろうか?どれほどまでに大きなご恩の中に生かされてあった私であろうか?
なのに、私ときたら己のはからいの中にうぬぼれて生活するだけの私でありました。その私を決して離そうとせずに阿弥陀さまはつねに抱き取っていて下されたか。と、仏さまのお念仏のみ教えの中に知らされて、気付いて、うなづいて、喜んで生きていくことを「報ず」と、仰られたのです。

「報ず」というのは、「返していく」というような傲慢な、うぬぼれのおこころでこの「恩徳讃」のご和讃をお作りになられたのではありません。
如来大悲の恩徳に対して、どれほど大きなご恩の中に、生かされている私であったかを気づかせていただき、喜びをもってお念仏を称えさせていただきながら、このいのちを身を粉にしてでも生きていかなければならないなあ。と、仰っておられるのです。
それが「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし」という意味です。いのちある限り、精一杯、阿弥陀さまのお念仏と共に、このいのちを生きていくことこそ阿弥陀さまのみこころに、報いていく生活であるということです。
それを「報いる」といただくのです。「返していく」のではありません。いただいて、いただいて、うなずいて、うなずいて、南無阿弥陀仏といただきながら、精一杯このいのちを生きていくことこそ、「報ず」という世界なのです。

だから、この「恩徳讃」は、過去を振り返りながら、もう命が無い。こうだった。ああだった。と回顧しながらのご和讃ではありません。
このいのちある限り、精一杯このいのちを生きていく、一生懸命、阿弥陀さまと共にこのお念仏いただきながら、このいのちを生きていこうという、「これからも阿弥陀さまのみ教えと共に生きていこう」という強い意志がこの「恩徳讃」にあらわされています。

師主知識の「師主」とは、お釈迦さまのことです。「知識」とは、みなさんをお聴聞の場に導いて下さった方々。聴聞の場に足を運んだのは自分の足ですが、歩かせてくださった方々が「知識のお方々」です。あの父が、あの母が、祖父が祖母が、先に行った連れ合いが、先に行ったかわいい孫が、この私を聴聞の場に呼んで下さっとったのだといただいたらよいのです。骨を砕きても、精一杯、「謝すべし」と仰られました。

「謝す」とは、「感謝」という熟語がありますが、「あやまる」という意味もあります。この「あやまる」とは「はじる」「ききいれる」「はじてききいれる」という意味です。

「はじる」とは、おのれのすがたに気づかなかったけれども、どれほどまでに煩悩まみれで、「俺が、おれが」と自分中心でしか生きて来なかったこの私でありながら、どれほどまでのお蔭さまの中に生かされておった私であったかと気づかされた時、知らされ、知った時、「何とありがたいことか」と、頭が前に下がっていく。はじて、聞き入れて、うなずいていく世界を「謝す」というのです。
「ききいれていく」というのがこの「謝す」です。

はじききいれて、どれほどまでに仏さまのご恩があったかをいただいて生きていかなければもったいないことであるなあと、しみじみとこのご和讃をお書きになられているのです。
これからも私のいのちのある限り、精一杯、仏さまのご恩を思い、よろこび、有り難く、ききいれて、うなずきうなずきお念仏と共に生きて参ろうという強い強い思いがこの和讃の中に書かれているといただいていくべきなのです。

               (平成30年9月13日淨教寺会館 彼岸会 柴田弘司先生ご法話より)




              黄色の彼岸花


             ミズヒキの花