2022年(令和4年) 11月 法話


         フジバカマ
            



         アサギマダラ

親鸞聖人の三哉(さんさい) 誠(まこと)なるかな 

今月は、親鸞聖人の「誠なるかな」というお言葉について味わってみたいと思います。
親鸞聖人の主著『教行信証』の総序の文の中に

誠(まこと)なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)、
    超世(ちょうせ)希有(けう)の正法(しょうぼう) 聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ。

現代語訳:誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。
とあります。

「摂取不捨」とは、「如来の光明の中に摂め取られること。」で、親鸞聖人は、高田専修寺蔵国宝本の左訓に「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と、その救いのはたらきが表されています。

「真言」とは真実の言葉、すなわち「南無阿弥陀仏」のことです。

「超世希有の正法」とは、世に超えた類まれなる真実の教え、すなわち『仏説無量寿経』に説かれる「阿弥陀如来の智慧と慈悲の真実のはたらき」を示しています。

「聞思して遅慮することなかれ」とは、素直に阿弥陀様の「必ず救う、我にまかせよ」との、お言葉をそのまま疑い、ためらうことなく聞き入れることこそが、一番大切なことであると教えられます。

私たちにとって、「幸せとは?」「本当の幸せとは?」
いろいろに考えられ、人それぞれによって答えもさまざまでしょう。
お釈迦さまは、「人生は苦なり」「生老病死・四苦八苦」「自分の思い道理に行かない人生」であると教えてくださいます。想定外の人生。何が起こってくるかわからない人生が本当のあり方です。
親鸞聖人の生きられた鎌倉時代も戦乱があり、自然災害も頻発し、餓死者が多く出る状態でした。また、ご長男の善鸞さまを義絶するという悲しい出来事もありました。そんな人生の中で、「真実の言葉」「阿弥陀さまの言葉・はたらき」である「南無阿弥陀仏」に出遇えたことこそが親鸞聖人にとっての「本当の幸せ」だったのです。
そのことをこの「誠なるかな」のご文は言い表しているのです。

淨教寺でもよくご法話してくださいました大峯(おおみね) 顕(あきら)先生は、

「この世には、人間の手で作れる安心などどこにもありません。不透明で不安定な世界に、一人ひとりが手探りしながら生きているだけのことです。たとえ津波に巻き込まれて、この世の命が終わることがあったとしても南無阿弥陀仏を信じた人は必ず仏さまになるのです。もしこの大きな利益がなかったら、宗教に一体どんな意味があるというのでしょう。真の宗教は、この世を楽しく過ごすために人間が考えついた手段や装置ではありません。この世という所は、何が起こるかわからない不気味な場所です。ところが、阿弥陀さまの言葉を信じる人は、どんなことに出会っても必ず仏になるのです。そう聞かされると、私たちは初めて安心できます。心配することはなかった、私は仏さまに成らせていただく身であった、南無阿弥陀仏の名号がそのことを私に伝えてくださっているのだ。この真理が聞こえたら、私たちは、今、ここで安心することができるのです。」と、「生命環流」というご本の中で語ってくださってます。

よくぞ、生まれ難き人間に生まれさせていただき、聞き難き仏さまの教えを聞かせて頂くことができました。中でも殊に、この末世(末法の世)を照らし導くまことの教え、浄土真宗。阿弥陀如来の本願力のよび声を南無阿弥陀仏と聞かせていただいたことであったと慶ばせていただきましょう。



            キチョウ


              ツマグロヒョウモン


             アカタテハ