2004年 10月 法のたより


何が大事か?     副住職 島田 春樹
淨教寺にも毎年ご法話にお出でいただいた利井明弘先生(昨年暮れに急逝されました)のお寺の「常見寺だより」を読ませていただきました。
「ほんまもんの味」という題で、生前に先生が話しておられたことを紹介しておられました。その内容をかいつまんで紹介しますと、
 大阪の某市では、お盆明けに必ず水道の水がまずいという苦情が来るので水道局の人が対応に困られるということです。その原因を突き止めると水道に問題があるのではなく、お盆に故郷に帰っておいしい水を飲んで帰るので、大阪の水をまずく感じるということでした。それで水道局の方がどのように対応しておられるのかといいますと、じっとしていますと10日もすると苦情が無くなるということでした。そうです、また大阪の水になじんで気にならなくなるというのです。こんなお話で、最後に蓮如上人の「常に信心の溝をさらえて、さいさいに弥陀の法水を流せ」と仰せられたお言葉で締めくくられておりました。

 本当にほんまもんを味わい続けるということがいかに難しいかということをつくづく思います。これだけ情報社会の中にいますと何がほんまもんで、ほんまもんでないかを見分けることも難しくなってきています。毎月20日は淨教寺の本堂に座ってほんまもんに耳を傾けてください。阿弥陀如来の尊い御姿が優しく出迎えて下さいます。

まず私にとって何が大事か?こんなたとえがお釈迦様の話の中にあります。
「毒矢のたとえ」
毒矢に射られた人が、この毒矢を@誰がA何の目的でBどこから毒矢を放ったか?という問題が解決するまでこの矢を私から抜いてはならない。と言ったとしたらどうでしょう。その人はそうしている間に毒が体に回って死んでしまうでしょう。それと同じで人間は今先にしなければならないことをしないで、どうでもよいことに時間をかけていると言っておられます。「生と老と病と死、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は現に人の身の上に押し迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために道を修めなければならない。」と。

「法雷」第332号で稲垣瑞剣先生は「樹心弘誓仏地 流念難思法海」(心を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつぢ)に樹(た)て 念(おもい)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す)という親鸞聖人のご文を紹介されて、常に仏語に触れることの大切さを力説されてます。また聖典の言葉に触れていることによって世間の雑事に振り回されないとも書いておられます。すなわち、
 「日々御本典(教行信証)に接していないと、人間の心がますます枯渇する。本典を味わわないと、浮世に心が取られて、劣等感を感ずる。悲しい哉。(中略)日々、如来の光明に触れることができる身でありながら、これを捨てて世俗の人のことばのみに耳を傾けて、煩悩を燃やしておるのは惜しいことである。」
仏語に虚妄なし。仏語こそほんまもんであるという事です。

寺沢 忍先生が9月の彼岸会の法話で、聴聞の心得をお話下さいました。1、素直に聞く、2、理屈抜きで聞く、3、繰り返し初ごととして聞く。という3ヶ条でした。法話だけでなく、いろんなことに通じる大切な3ヶ条だと思います。