2005年 1月 今月の法話


迎春

よきことも 悪しきこともすべて御催促と受けとめ 謙虚にして はげみましょう。 住 職

平成16年(2004年)を表す漢字として清水寺の貫主さんが昨年末に「災」という字を書かれました。台風の10回もの上陸、浅間山の噴火、新潟中越地震を初めとする各地の地震、児童虐待、欲望むき出しの殺人事件そして、年末にはスマトラ島沖の地震による大津波の大災害と、オリンピックの感動も消し去られるくらい悲しい出来事の多い年でした。本当に「災」の字がピッタリの年でしたが、ただ単にそれだけに終わらせることなく、むしろ
「自分の不徳と宿業の致す所である」と深く内省することが大事でありましょう。
稲垣瑞劔先生のおうたに
「幸福来らば敵と思え、苦しみ来らば惰眠を覚ます他力大行の催促なりと思うべし
というおことばがあります。
物事が順調に行っている時ほど、有頂天になって、慢心が出るものであるから、かえってそんな時ほど注意が必要である。また、苦しみや災事は私の怠けている心身に、
「無常迅速 生死の事大なり」と覚醒して下さるみ仏のご催促・お誡めと受けていくことが大切である。そしてそれはひとえに私自身のつくってきた罪障のしからしむるところと慚愧すべしと、先生は常に仰言っておりました。
また、もう一つのおうたに
「きのうはすぎ あすはあすの風が吹く七難八苦何のその われに六字の、護りあり
とあります。
まさに、「苦あれば楽あり 楽あれば苦あり」無常とはそういうこと。苦しみばかりではない。楽しみばかりではない。七難八苦がたとえ来たとしても、「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ) 南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」の
六字のお名号は「心配するな、常に見ておるぞ、護っておるぞ、必ず救う」の阿弥陀如来の呼び声、はたらきに護られていることに気づかせていただき、日々を乗り越えさせていただくのです。

親鸞聖人のご和讃には、
「濁世の起悪造罪は 暴風駛雨(ぼうふうしう)にことならず 諸仏これらをあわれみて すすめて浄土に帰せしめり」と
示されておられます。
これを読んでいただいているほとんどの方々は、悪いこともしてないし、罪になるようなことはもってのほかと思っ
ておられる方が多いでしょう。しかし、仏教では身口意(しんくい)の三業(さんごう)といって、@身体で行うこと、A口で言うこと、B心で意識して思うことの3つの行いは同じ意味をもつと教えます。心で思うことくらい実際にしてないのだから自由だと考えるのは浅はかなことです。たとえば「あの人早くいなくなればいいのに」と思うことは、実際に殺したことと同じくらい大きな罪になっていくのであるということです。そういう善悪、罪ということに関して家庭での認識が薄いし、子供や孫たちに伝達されてないことが、現代の身勝手な犯罪の原因であるといえます。
 すなわち、濁世の起悪造罪とは、私自身のことを言い当てておられるのです。その私を、ご心配くださって諸仏方、阿弥陀如来は浄土真実への道をすすめて下さっておられるのです。
1月13日は瑞剱先生25回忌(昭和56年寂)のご命日にあたります。