2007年 7月 今月の法話



慚愧(ざんぎ)のこころ

「慚愧(ざんぎ)心(しん)のある人は能(よ)く仏法(ぶっぽう)に入(い)る。
慚愧なき人は解脱(げだつ)に至ることが出来ない。」『法雷句集』の一句です。

慚愧について瑞劔先生は『人生の道しるべ』の中で、

人間は、おれは人間である、山川(さんせん)草木(そうもく)は自分と異ったものだと思っている間は、そこに「分けへだて」があるから「真の人間のすがた」はわからない。「仏心」(大慈悲)とは「分けへだて」のない心境である。それが「仏」なのである。

どうしても自分は「分けへだて」を為し、「愛情」にほだされている人間だと自覚するならば、「慚愧」するより外はない。「慚愧」することのみが普通人に許される唯だ一つの善根(ぜんごん)である。

「慚愧」とは天に恥じ、地に恥じ、自己に恥ずることである。一たび「慚愧」の山へはいったら、一生涯、その山から出て来ないがよい。「慚愧」の山から出て、浮世の人と交わると、直ぐに「我執(がしゅう)」と「我(が)愛(あい)」と「我慢(がまん)」のとりこになってしまう。浮世に交わりつつ常に「慚愧の山」を背負って行動するがよい。これが「人間らしき人間」である。でないと「内心は夜叉で外面は菩薩」といった「怪(ば)け物(もの)」となってしまう。人間が人間性を失った時に人間は「怪け物」となる。「怪け物」でない人間とは「慚愧の山」を常に背負うて行動する人である。

ご互いに「人の為につくそう」「社会の為になろう」と励まし合う事は善い事である。然しながら、誰にも言えないことであるが、心の底に「実は自分が可愛いのだ」という「大蛇(だいじゃ)」がわだかまっていることを忘れないで「慚愧心」の土台の上に「公共の利益」の家を建てるがよい。これが「人間らしき人間」というものである。
と、述べておられます。

妙好人(みょうこうにん)(有り難い信者の尊称)と呼ばれた源左(げんざ)さんの話を思い出します。

ある時、一灯園主から「年をとると、気が短くなって、よく腹が立つようになるものだが、どんなことでも辛抱して、こらえて暮らしなさいよ。」と話されたことに対して源左さんは、「私はまだ人に対して辛抱したことはございません。それよりも人さまから辛抱してもらってばかりの日暮しでございます。」と、答えられたという言葉がとても印象深く心に残っています。

源左さんが、私という存在は自分のことばかりを中心に考えて、如何に他人に対して迷惑をかけているか、また、如何に人に辛抱してもらっているか。ということを内省して生活していることが大変尊いことと思います。それもお聴聞によって、阿弥陀さまの「おまえ一人を目当ての、心配するな必ず救うのご本願」の大慈悲を聞き開かれたたまものであります。

また、『教行信証』信巻末には『涅槃経』を引用されて、
二つの白法あり、よく衆生を救う。一つには慚、二つには愧なり。(中略)慚は人に羞(は)じ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。慚愧無き者は名づけて人となさず。名づけて畜生となす。
と述べられています。

その内容を『仏教聖典』には慚愧(ざんぎ)することの尊さとして次のように示しています。

おのれに恥じず、他にも恥じないのは、世の中を破り、おのれに恥じ、他にも恥じるのは世の中を守る。慚愧の心があればこそ、父母・師・目上の人を敬う心も起こり、兄弟姉妹の秩序も保たれる。まことに、自ら省みて、わが身を恥じ、人の有様を見ておのれに恥じるのは、尊いことといわなければならない。

懺悔(ざんげ)の心が起これば、もはや罪は罪でなくなるが、懺悔の心がないならば、罪は永久に罪として、その人をとがめる。

正しい教えを聞いて、いくたびもその味わいを思い、これを修め習うことによって、教えが身につく。思うこと修めることがなければ、耳に聞いても身につけることはできない。

信と慚(ざん)と愧(ぎ)と努力と智慧(ちえ)とは、この世の大きな力である。このうち、智慧の力が主であって、他の四つは、これに結びつく従(じゅう)の力である。

道を修めるのに、雑事にとらわれ、雑談にふけり、眠りを貪(むさぼ)るのは、退歩する原因である。