2008年 5月 
今月の法話



私は何者か? (「法雷句集」より 稲垣瑞劔先生)
 
色は匂へど散りぬるを わが世たれそ常ならむ。死なぬつもりで死んでゆく。参れるつもりで落ちてゆく。煩悩あるからこの世は憂き世 無常の世界 苦の世界。楽のない世 に楽求む、欲も希望も影法師 人惑わして駈(かけ)り去る。人の命は朝の露 一切有為法(ういほう) 夢のごと。夢の憂き世と云いながら夢とも思えず憂き苦し。いつの日か 法性(ほっしょう)常楽(じょうらく) さとり得ん。酔生夢死では はずかしい。人と生れた甲斐がない。汝今若くありとても 夜半のあらしを誰か知る。 無常迅速(じんそく) 業因業果 毛すじもたがわぬ大真理 驚き恐るる人はなし。

1、お前は何か。
そもそも仏法是れ何ぞ。自己の究明是れ仏法。自己とは何ぞ。自己の心に問うて見よ。真実に究明すれば 是れ解脱。究明する人 是れ貴人。 これほど難 しいものはない。哲学、倫理、宗教も出来る人ならやるがよい。出来ない底下の凡愚には 禅の道にて自己究明もかのうまじ。凡慮(ぼんりょ)の及ぶことでなし。性界(しょう
かい)示現(じげん) 阿弥陀如来がありがたい。凡愚底下の私は 仏に抱かれし我が身こそ、自己の発見 ありがたや。抱かれていながら 己が心をながむれば 愚悪の凡夫  恥かしや。
無碍光如来の 威神力 本願力に摂取され 一切衆生 ことごとく やがて大悲を得る身なり。是れを名けて「仏性」と云いたもうこそ うれしけれ。 

2、お前はどこにおるか。
畳の上か。路傍(みちばた)か。歩いているか。船中か。一体お前は どこにおる。ほんとの居り場所 南無阿弥陀佛 知らぬ故、いつも心は いら いらと。恐怖と焦燥(しょうそう) きびすに狼 見るように、びくびく不安で 死を背負い 鬼窟(きくつ)葛藤(かっとう) 駈け廻る。逃がるるすべは更になし。ほんまにお 前はどこにおる「南無阿弥陀佛 摂取光中 弥陀のふところ。」この一言が云われんか。
「摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)」「我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅうちゅう)」ありがたいでないか。自分の居り場所 知らぬ故、何十年と寺詣 り、得たものとては 何もなし。今死んだら どうなるか。参れる参れぬ 決着つかずに うろうろと。人の一生 短いぞ。 今晩死んだら どうするか。地獄必定 恐ろしや。参れるか参れぬか 未決定で おる人は 自分の居り場所 知らぬ人。

3、お前はどこへ行くか。
「摂取光中 弥陀のふところ 南無阿弥陀佛。」今居る場所が 知れたなら 出て行く先は 弥陀まかせ。本願力に乗托し 行きつく先は 極楽の 八解(はちげ)の浴地(よくち) 七宝(しっぽう)の台(うてな)。 願力自然 ありがたや。 参れる参れぬ そんな心配いらぬ事。
「本願力の 風に吹かれて 弥陀まかせ。」「親様ござる 何の事 ないわい。」本願力に まかせ切ったる 人ならば 心は安し 大安堵。それも皆 南無阿弥陀佛の ひとりばたらき。本願力の「大悲の願船に乗じて 光明の広海に浮ぶ」 亦楽しからずや。

4、お前はどこから来たか。
「無始の無明の鬼窟から。」 迷いの始め 知らねども 迷いの打止め 今の今。「南無阿弥陀佛 摂取光中 親のふところ」、 これが迷いの 終りなり。一たび大悲の親が分ったら いかなる人もおしなべて 如来大悲の恩を知り 称名念仏 はげむべし。 

きくままに ただきくままに お慈悲よと  
       たのむなりけり 弥陀のよびごえ。

すやすやと 親に抱かれた あの赤児  
       落ちる落ちぬの 心配もなし
               
              南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛



 
2008年4月20日定例法座 大峯 顕先生 ご法話 より

文学者で詩人の大岡信という人が担当した朝日新聞の「おりおりのうた」という欄で選ばれた歌の中に

「われは何故われにてあるか 中年の男の問うはこっけいならん」

と、 いうのがあります。
「われはなぜわれであるか?この私は何でこの私なのか?」そういう問いをこの中年にもなった男の自分が問うのはさぞかし皆は滑稽だと思うだろうが、決して滑稽ではない

私たちはその問いに答えないで、誤魔化して、それをかわして生きているだけである。みんな分かったつもりで誤魔化しているのです。
「何で自分は生きているのだろうか? 何のためにこの人生に来たのだろうか?」という問いは必ず出てきます。これは生命の問いですから。
我々は、この根源的な問いをいつもかわして生きているだけだと、大岡さんは解説していました。

「私たちはどこからやって来たのか?」父、母からやってきたのではない。父、母が縁になってはいますが、その両親もどこから来たかわからない。両親を縁にしないと私と いう存在は無いけれども、両親が私を作ったのではないです。
これは大いなる生命の運動が通過しただけなのです。親子はこの運動に参加しているだけです。だから、私というこの存在の根源がどこであるかということは大きなる謎であ り、この存在は永遠ではありません。間もなく消えます。「私はどこへ行くのだろうか?」大きな謎ですね。それがわからないと、行方不明になるということと同じです。

「私はどこから来たか?私はどこへ行くのか?私とは一体何者か?」簡単に言ったら仏教の問題は、「私とは誰か?自己とは何者か?」ということです。これが宗教の根本問 題です。

その答えは、阿弥陀如来さまの本願の上に乗っている存在が私の正体だということです。如来さまがなかったら私というものもあり得ないのです。私というのもよりも如来の 本願というものが先にある。如来の本願という大きな広場の上に私はいるのです。大きな無限大の空間が開かれる。不思議なものが我々よりも先にあった。だから私が消える といってもそれはその大きな空間の外に出るわけではありません。如来さまの中でしか私たちは生まれることも死ぬこともできないのです。こうしたら安らかになりますね。

今までわからなかった私というものが、実は如来さまの中におったのかということにふいっと気がつく。何か遠いとこに行くことではありません。もともと如来さまのお助け の中にあった。そこに気づくということです。ああよかった。何も心配なかったのだ。と、気づくことを信心というのです。      
   (文責 編集)