2010年 11月 今月の法話

*  関東 親鸞聖人ゆかりの旅 

親鸞聖人が承元(じょうげん)の法難(念仏弾圧)によって越後に流罪になられて、5年後ご赦免になり、その後42歳頃、関東に移られました。62~63歳で京都に帰られるまでの約20年間ご教化をされる中で、多くのご門徒が北関東に育たれました。
今回の旅は、10月26日から28日の二泊三日で六ヶ寺を参拝させていただきました。一日目は①板敷山ご法難、明法房(みょうほうぼう)弁(べん)円(ねん)ゆかりの大覚寺さま。(関東にて念仏布教される親鸞聖人に修験道の呪術を施してきた弁円が信者を奪われ親鸞聖人を殺そうと板敷山で待ち伏せしていましたが、一向に現れませんので、稲田の草庵へ押しかけて行きますと、驚く様子もなくあたたかく出迎えられた親鸞聖人のお姿に感動されまたお念仏の教えに感銘してお弟子となられた明法房弁円ゆかりのお寺です。)②浄土真宗の源流ご本典『教行信証』ご制作の稲田の西念寺さま。(この場所を拠点に門弟たちのそれぞれの道場に通い教えを説いていきました。それらはほとんど稲田から30数キロの範囲で一泊二日の行程です。一日歩いて目的地に到着し昼仕事をしている人々に夜教えを説き翌日稲田に向かって帰るという行程が可能でした。)
二日目は①親鸞聖人のお孫さま(善鸞(ぜんらん)さまのご長男)如信上人創建の願入寺さま。(如信上人のお父様・善鸞さまについての誤解を改めていただく尊いお話と書物・今井雅晴先生の『親鸞と如信』に出会わせていただきました。この件につきましては次号に詳細をお伝えする予定です。)②『歎異抄』の著者、唯円房ゆかりの報仏寺さま。(親鸞聖人が京都へ帰られてから関東の門弟の中に親鸞聖人の教えと異なることを言い出すものが出てきたことを嘆き、親鸞聖人からお聞きしたことを書きとどめて下さったお方のお寺であり、お墓は奈良の下市の立興寺さまにあります。)
三日目東京都内にて築地本願寺さま。麻布の善福寺さまを36名の門信徒のみなさまと巡らせていただきました。みのり多き有意義な旅をさせて頂くことが出来ました。



              築地本願寺にて記念撮影


*なぜ、親鸞聖人は京都に帰らず、関東に旅立たれたのか?

筑波大学名誉教授の今井雅晴先生は、『親鸞と如信』の中で、親鸞聖人は鎌倉をめざしたのであろうと推測されています。
その理由は、
1、鎌倉に武士の政府が出来、新しい意欲に満ちた政治を始めていた。
2、京都、奈良から多くの貴族や僧侶が鎌倉や北関東をめざした。たとえば、臨済宗の栄西。曹洞宗の道元。浄土宗鎮西派の良忠。真言律宗の忍性。時宗の一遍などです。
3、その当時の関東は、荒野で辺鄙なところというイメージがありますが、非常に生産物豊かな国であった。(朝廷への租税額の多い順に「大国」「上国」「中国」「下国」に分かれるが、常陸国は「大国」と位置付けられ生産量も多く、人口も多いという証である。)
以上の点から、関東は新しい希望に満ちた可能性を秘めた地域でした。また今後の見通しをたてようという僧侶にとって鎌倉は魅力的なところだった。と分析されています。
また、親鸞聖人と恵信尼公そしてお子様お二人(善鸞さまは京都に残り、越後で生まれた「小黒の女房」と「信蓮房」)のご家族の生活を支える経済的見通しがなければやすやすと関東には向かわれません。その点を今井先生は、
1、北関東の中央の下野の国、宇都宮の当主宇都宮頼(うつのみやのり)綱(つな)は法然聖人に帰依して蓮生(れんしょう)と名のっていました。越後流罪のことを知っていたはずですし、鎌倉をめざしていることを知り、自分の領内に招いたのではないかと推定されています。
2、また常陸の国で二番目に広い荘園である小鶴(こつるの)荘(しょう)があります。そこの領主は摂関家の九条兼(かね)実(ざね)でした。その兼実に恵信尼公の父三善(みよし)為(ため)教(のり)が家老として仕えていました。そのような関係から経済的援助も期待できたと思われます。
最後に、法然聖人の弟子たちが関東にかなり住んでいたということも考慮すべきであると指摘されています。たとえば前記の宇都宮頼綱、蓮生(れんせい)と名のった熊谷(くまがい)直(なお)実(ざね)などです。
以上の観点から、親鸞聖人は関東への念仏布教へと旅立たれたと指摘しておられます。



               稲田の西念寺にて