2011年 6月 今月の法話

「旅人と狂象」  ただひとたびの人生は尊い  永代経法座5月19日朝 前住職 島田和麿

 はてしなくつづく広野を一人の旅人が西に向かって歩いていました。草木もなく、泉も川もなくみわたすかぎりの荒れ野でした。突然うしろから狂った象が旅人に襲ってきました。空腹で食べようとしたのです。旅人はおどろいて西へ向かって逃げました。しかし狂象の足には及びません。ついに追いつかれて、まさにつぶされようとしたとき、幸いなことにすぐ前に古井戸が見つかりました。しかもその井戸にはしっかりしたブドウのつるが垂れ下っていました。シメタとつるをつたって下にかくれました。狂象はどうしようもありません。無念そうに井戸の中を見おろすばかりです。
 旅人はたすかったとよろこび、象の立ち去るのを待とうと思いました。ところが古井戸の下をみると大蛇がかまくびをもたげて旅人が落ちてくるのを待っているではありませんか、一難去ってまた一難、どうしたことか、今度は上を見ると、いのちともたのむその太いつるを白いネズミと黒いネズミが、両方からカヂリはじめているのです。衝撃でネズミが眼をさましたのでしょうか、一刻一刻つるは細く、切れそうになっていきます。まさに危険はせまり恐怖おののく、絶体絶命の事態です。ところが旅人がつるの上をふとみあげるとおいしいブドウの房がみのっているではありませんか、旅人は何もかも忘れ、夢見ごこちでそのブドウを食べていくのです。話はそこでおわりです。


さてこの説話は何を語ろうとしているのでしょうか。
一. はてしなくつづく広野とは、「人生」の行く先や目的がわからないこと。そして人生のむなしさ、確かなよりどころがないこと、その上に導いて下さる先生(師匠)がいないことを意味しています。
二. 西に向って歩くとは、そこでひたすら真実を求め、さとりを求めて歩み出すことをいいます。
三. 突然狂象が襲ってくるとは、私たちに絶えず誘惑がおそいかかり情報に埋もれ・あやまった考え方(異学・異見・別解・別行)が攻めてきていること、そして私たち自身・無知と絶望のちまたにいていまだ平穏・立命を見出ださずにいることを言っています。
四. 幸い古井戸がみつかりつるをつたって下に逃げましたが、下には大蛇がかまくびをもたげて待っているとは
一人一人は自分の業(おこない)の報いから未来、必ずきびしい世界へ行かなければならないことを意味しています。
五. 白いネズミと黒いネズミがつるをかじるとは、白いネズミは昼の時間、黒いネズミは夜の時間を意味し、刻々と時間は空しく足早に過ぎていくことを語っています。
六. 危機を忘れてブドウを食べるとは、この世のことにのみふけった生き方をしていること。  「み教」を忘れ、目先のことだけに執着していてはいけない、早くめざめなさいと告げて下さっています。 

○ この物語は、私たちの人生は実に、常に危機の中にあることを示して下さってあります。
 生・老・病・死はもとより愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦八苦の人生の事実を語って下さっているようです。佛教は「人生は苦なり」の自覚から始まっています。そのほか天変地異・事故・対立・何がおこってくるか分らない、危うく苦しい状況のもとで生きているということを先ず自覚し、人生の危機を根本的に解決する道、悟りへ道を求めなさいと釈尊は仰言っているのです。そして、慚愧と感謝の大切さをすすめて下さっています。「無常迅速・生死の事大なり」そして「生死出ずべき道」が仏教本来の目標であります。
親鸞聖人はその道を歩まれました。
むすびに、このたび東日本大震災は森羅萬象、人生全て変化の中にあり、いつ危機が訪れるか分らないという大きな教訓をいただきました。私たちはそのことを厳粛に受けとめ常にわが身を省み、身心を引き締め、聞法に志して行きたく思います。


東日本大震災支援 企画
まけない!タオル

淨教寺も「まけない!タオル」の企画に賛同し、長く支援していきたいと思っています。皆様も是非ご協力下さい。タオルは4月8日の潅佛会コンサートで歌ってくれた、やなせななさん(歌う尼さん)教恩寺住職が
奈良で作って支援しています。

  参加ご協力いただける方は、直接「宗教法人 松林寺」さまへ振り込んでいただいても結構ですし、

 下記の要綱をご記入いただき、淨教寺へお届けいただいても結構です。

「まけない!タオル支援します。」1口1,000円×(  口)  申し込み日  年  月  日
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