2011年 7月 今月の法話

ミョウガの由来・チューラパンタカ(周利槃陀伽) 


ミョウガ(茗荷)のおいしい季節になってきました。
わたしのふるさと、新潟・明鏡寺には境内にミョウガ畑があり、毎年たくさんの新鮮なミョウガがとれます。きざんで薬味としたり、甘酢に漬けたり、天ぷらにしたりいろんな楽しみ方があります。小さい頃は、あまりおいしいとも思いませんでした。境内で友だちと野球をしてボールがよくミョウガ畑に入ってしまい、ミョウガの存在にも気付かず踏みつぶしてボールを探していて、よくしかられたものです。


そのミョウガの名の由来がおしゃかさまのお弟子からきていると言われています。こんなお話です。

おしゃかさまのお弟子であるチューラパンタカ(周利槃陀伽:しゅりはんどく)が、自分の名前を忘れてしまうため、おしゃかさまが首に名札をかけさせました。しかし名札をかけたことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前を覚えることができなかったそうです。その後、死んだチューラパンタカの墓にいくと、見慣れない草が生えていました。そこで「彼は自分の名前を荷って苦労してきた」ということで、「名」を「荷う」ことから、この草に茗荷と名付けた。といわれています。

このお話をもとにミョウガを食べすぎるとチューラパンタカのように「物忘れがひどくなる」と言われていますが、学術的には根拠がないようです。


チューラパンタカは兄のマハーパンタカをたよって、おしゃかさまの教団に入門しました。
聡明な兄と違い、物覚えの悪い弟のチューラパンタカはおしゃかさまの言葉も理解できず短い言葉さえもなかなか覚えることが出来ませんでした。兄は、弟を不憫に思うと同時に、同じ教団にいることにわずらわしさを感じ、弟に故郷に帰るようにと諭しました。

自らの愚かさと、兄への申し訳なさに涙を流して門の前でたたずむチューラパンタカの前におしゃかさまがあらわれ、優しく語りかけられました。
「そなたは、私の弟子である。私のもとで修行を続けるがよい。」と、チューラパンタカに一本の箒(ほうき)を与えられました。

「今日からその箒で“塵をはらおう、垢を除かん”と唱えながら、精舎(僧院)の中を掃き清めなさい。」と、おしゃかさまから言いつけられました。

“塵をはらおう、垢を除かん”という言葉さえもなかなか覚えられず苦労していましたが、毎日毎日こつこつと続けていくうちにやっと覚えることが出来ました。その時のよろこびは言い知れず満ち足りたものでした。
来る日も来る日も、落ち葉を、ゴミやほこりを掃き続けていきました。掃き続けても、翌日にはまた枯葉や、ゴミやほこりが落ちています。また、おしゃかさまからいただいた新しい箒も毎日の掃除で先のほうはすりきれ、短くなり柄の部分も手あかがついて汚れています。

そんな中、なぜ私だけがこんな仕事をしなければならないのか?なぜおしゃかさまはもっと違った修行をさせて下さらないのか?と不満の心が起こります。また、精舎の中を掃除しているときに、仲間のお弟子たちから「ありがとう。毎日よくやってくれるね。」と、ほめられて非常にうれしくなってしまうこともありました。そんな心の動きを素直に見つめることが出来るようになっていきました。

チューラパンタカにもおしゃかさまのおっしゃった“塵をはらおう、垢を除かん”ということばの深い意味を悟り、こころの光となって輝いていきました。

「おしゃかさまは、精舎の塵や垢をいわれたのではない。私の心の塵をはらい、垢を除けとおっしゃたのだ。」
その様子をご覧になられたおしゃかさまは、たいへんよろこばれお弟子たちに語られました。

「自らの愚かさに気づくものは、愚か者ではない。自らを省みることを知らず、自分ほど賢いものはないと思うものの方が、どんなにか愚かであろうか。」

わが身の愚かさに眼の開けたチューラパンタカは、やがて多くの人々からから尊敬され供養される大阿羅漢になられたということです。