平成28年 2月法話

法雷カレンダー 御和讃のこころ  


定例会入会の方には、法雷カレンダーをお渡ししています。
昨年は「祖師のおことば」をテーマに、親鸞聖人をはじめ各祖師方のおことばを毎月楽しませていただきました。
今年は「御和讃」をテーマに、親鸞聖人の500首あまりの和讃の中から、稲垣瑞剱先生が揮毫して下さいましたものを毎月味あわせていただく予定です。
1月と2月のご和讃は、冠頭和讃とよばれるもので、浄土真宗の肝要を示した和讃です。

弥陀(みだ)の名号(みょうごう)となへつつ 信心(しんじん)まことにうるひとは
憶(おく)念(ねん)の心(しん)つねにして 仏(ぶっ)恩(とん)報(ほう)ずるおもひあり
(意味:弥陀の名号である南無阿弥陀仏をとなえ、他力の信心を得ることができた人は、つねに本願力のはたらきをおもうこころがたえないで、阿弥陀仏のご恩を報ぜずにはいられない。)

誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)をうたがひて 御名(みな)を称(しょう)する往生(おうじょう)は
宮殿(くでん)のうちに五百歳(ごひゃくさい) むなしくすぐとぞときたまふ
(意味:如来の不思議な誓願をうたがい、自力の念仏によって、浄土に往生しようとするものは、疑城胎宮という化土に生まれ、五百年の間むなしく年月を送り、三宝を見ることもできないと説かれている。)

第一首は、真実の信心を得て、念仏を称えている者のすがたを示して、真実信心を得ることを勧められ、第二首は、疑いの心をもって念仏を称える者が、お浄土の化土にうまれる姿を示して、本願を疑うことを誡められている。冠頭二首は、信を勧め疑を誡める「勧信誡疑」を表されるものといわれる。それは、この二首のみならず、「三帖和讃」全体に通じる親鸞聖人のおこころのあらわれです。
稲垣瑞剱先生は「浄土和讃講讃」の中で
「それで、まあ、高僧方も、もと仏様であったという人が「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)(衆生は無辺なれども誓いて度することを願う:地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願)」「煩悩無数誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん)(煩悩は無数なれども誓いて断ずることを願う:煩悩は無量だが、すべて断つという誓願)」と発心なさる。法然上人も親鸞聖人も、それは出来んよって落第や。落第してしまって、「如何しようかなー」「どうも仕様がない」、けども自分ながらも、「私には助かる道がない、私が助かる道はないけども、助かりたい」、「私が仏になる道はないけども、仏になりたい」「極楽へ行く道がないけども、極楽へ行きたい。」という心が起こってくるのである。犬猫は知らんけど。凡夫といいながら、やっぱり人間にはよい心がある。それすら仏様の光明に触れぬことには、そういう心は起らん。さあ、そういうところへ行って、そこで真剣にその道を探し、辛苦すると、仏様が、「南無阿弥陀仏、落としはせんぞ」「お前の後生はおれが引き受けた」と仰せられる。「心配するな」「お前は極楽へただのただで往けるぞ」と仰る。
「ただで往けるようにしてあるのが“本願力”という力や」と、そういうふうに仰って下さったら、こちらの方は「ありがとうございます」となるのである。それより外にない。そうすると、明けても暮れても「有難うございます、有難うございます、南無阿弥陀仏。何も出来ませんこの愚か者を、阿弥陀さまなればこそ、有難うございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」となるのである。それが「弥陀の名号となえつつ」である。
「有難うございます、ありがとうございます」と、仏様のお慈悲の力を仰ぐのが「憶念の心」である。
「仏恩報ずる思い」というのは、どういう「おもい」か、というと、「勿体ないことです」という、それだけが「仏恩報ずる思い」である。
まあ、こういう宗教は世界中に二つとない。これだけで皆、「仏」になるのである。「この結構なみ教えを、誰も彼も、まあ世間の人に、一人でも多く聞いてもらいたいな!」と思うのも「仏恩報ずる思い」である。
「信心とはどんなものですか」と、聞いたら、なかなか難しい。お聖教(『最要鈔』)には、「信心をば、まことの心とよむ上は、凡夫の迷心にあらず、全く仏心なり」とある。そしたら、如来様の「どうしても助ける」「助けなおかん」という仏心、親心が信心である。そこのところを、やはり、“聞き開かないかん”のである。
善導様が「汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」と仰ったのである。「汝一心正念にして直ちに来れ」の「およびごえ」は、「おねがいだから、どうぞ、そのまま、直ぐ来ておくれ」と仰るのである。これならわかるであろう。
それに、無常迅速、ぐずぐずしとったら地獄へゆくから「そのまま、直ぐ来ておくれ」と、仰るのである。如来さまから「おねがいだから」と言われたら、「“直ちに来れ”と言われたとて往かれませんやないか」と、そんなこと言う必要ないであろう。
「そうでしたか!それが「汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」というおこころでしたか!」とこうなるのである。阿弥陀さまが「おねがいだから、どうぞ、そのまま、直ぐ来ておくれ」と仰るのである。これがほんまの南無阿弥陀仏の意味であり、おいわれである。第18願のおこころである。
「冠頭和讃」の次の句は、これは20願の意である。20願というのは仏智の不思議を疑う、これが20願というものである。
誓願不思議を疑うのは、「仏智を疑う」のと同じことであり、「仏智疑う罪深し」と言うて、仏様の智慧を疑う者は「胎生」といって、宮殿のうちに五百歳、三宝を見聞することができないと説かれている。
「十八願のお法り」を聞き開いて、「南無阿弥陀仏のおいわれ」を聞き開いて「十八願のおよびごえ」を「ありがとうございます」と聞いたものは、これは「仏智の不思議を信じた」「明信仏智」(明らかに仏智を信ず)の人である。化土に往生する人は不了仏智の人、仏智を了せず、仏智をさとらず、仏智を信ぜぬところの人がこの化土に往生するのである。


昨年10月17日、淨教寺本堂平成大修復工事落成慶讃法要を西本願寺大谷光真前門様御親修のもと盛大に執り行わせていただきました。改めて御礼申し上げます。前門様の最近のご著書に写真の『いまを生かされて』があります。その中で、年の初めにぜひ読んでおいていただきたい文章がありましたので引用してご紹介させていただきます。

見守られていることのしあわせ

宇野浩二(明治24年~昭和36年)が書いた童話に『聞く地蔵と聞かぬ地蔵』という作品がありました。比較的有名な話だったと思いますが、次のような話です。
昔、ある貧しい村に旅のお坊さんがやってきます。お坊さんを村人は手厚くもてなしてくれました。お坊さんは御礼に一対の地蔵を村に残しました。一つは何でも願いをかなえてくれる「聞く地蔵」、一つは何も願いをかなえてくれない「聞かぬ地蔵」です。

お坊さんは、「本当は聞かぬ地蔵にお参りする方が良いのだよ」と言い残して村を去っていきました。村人は次々と、聞く地蔵にお願いして願いをかなえ、病気や災難をまぬがれて、豊かになっていきました。しかし、豊かになった村では諍いが絶えなくなっていました。村人たちは働かなくなったうえに、他人と比べてより豊かにと望み、果ては他人の不幸さえ願うようになったのです。
村の混乱ぶりがここまできた時、お坊さんがふたたび村を訪れます。そして「聞かぬ地蔵にお参りしなさい」と繰り返すのです。村人は初めに言われたことの意味にようやく気づいて「聞かぬ地蔵」にお参りするようになったということです。

この短い物語には、人間の願いや幸せと欲望の問題が示されています。人間の欲望には際限がありません。
この物語を思うとき、地蔵ではないですが、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩のことを述べられた、次の和讃が心に浮かびます。

観音(かんのん)勢至(せいし)もろともに 慈光(じこう)世界(せかい)を照曜(しょうよう)し
  有縁(うえん)を度(ど)してしばらくも 休息(くそく)あることなかりけり (浄土和讃 19)


(阿弥陀如来は、観音菩薩と勢至菩薩とともに、慈悲の光でこの世界を照らしてくださる。そして縁に恵まれ導かれた者を、休むことなく救い続けられているのです。)
誰かが見守ってくれているという感覚のありがたさを思います。「聞かぬ地蔵」のように、阿弥陀如来にお願いをしてもお金が儲かる訳ではありません、病気が治る訳でもないけれど、ただ苦しんでいる自分を、愚かな自分を、どこかで見つめてくれている方がいる。
そういう感覚や視点を持てれば、何も支えのないところで一人苦しんでいるのと、自分が何をしていても見守られていると知っているのでは、日々の生活がまったく違ってきます。もちろん後者の生き方は、本当の孤独ではないということです。                 (『いまを生かされて』より)


傾聴ボランティア僧侶・「金沢豊」さん 
 東日本大震災 被災地からのレポート


東日本大震災から5年を迎えようとしている被災地、被災された方々も全国に散らばり、又被災者各々が悩みを抱えての生活の中で、一人一人と向き合い被災者の心持に耳を傾けて行く日々を過ごしておられる傾聴ボランティア僧侶・「金沢豊」さん(淨教寺所属僧侶)の被災地からのレポートを今月から紹介していきます。

仮設住宅訪問活動誌 〜てんでんこ〜    淨教寺 衆徒  金沢 豊
「てんでんこ」とは、「各々」や「てんでばらばらに」という意味で、東北沿岸部では日常的に使われる言葉である。特に2011年の震災以降、強い揺れを感じたら津波を想定し他人を構わずに各自逃げる事を意味する「津波てんでんこ」が全国的に知られる事となった。「自分の命だけを守る行動をとればいい。めいめいがそう思えば再び会えるから」そういって笑い合う夫婦。一方で、てんでんこに逃げ「なぜ、あの時一緒に逃げなかったのか」と後悔と自責の念が止まない方もいらっしゃる。私たちが続けている訪問活動では、各々(てんでんこ)の思いを大切にしたい。一人ひとりが他者と苦しみの比べ合いをせずに、安心して悲しめる場を提供したいと思う。東日本太平洋沿岸部は広く、被災された方々それぞれが全国に散らばり、てんでんこの状況にあるからだ。
震災から5年を迎えようとするいま、被災した地域、そこにお住いの人々の置かれている状況は、一言で括る事ができない。外部に発信される情報が先細っていく現在だからこそ、これまで聞こえてこなかった声があらわになり、神経を研ぎ澄まして耳を傾けるべき想いがあることを感じている。そんな思いから紹介できる声は、岩手県沿岸南部で出会った人たちとの極めて限定的な話だ。それでも、一人ひとりの声に耳を傾け、思いを寄せることの意義を本コラムから感じとっていただき、てんでんこに想いを寄せていただければ有難く思う。

今年はもっと深く・細やかに被災者の方々のニーズを聴き受けて行きたいと思います。
今年も淨教寺を代表して率先・傾聴活動に取り組んで参ります。
皆様の心からのご支援をお願いいたします。           合 掌