今月の法話      平成30年 2月

本堂再建50年・第24世義昭法師33回忌 

昭和11年1月26日に本堂が焼失してから82年。焼失後32年をかけて本堂再建がなされて(昭和43年・本堂落慶法要)から50年。今年は、その本堂再建に生涯をかけられた淨教寺第24世島田義昭前々住職(昭和61年3月18日寂)の33回忌に当たります。
来月3月20日(火)彼岸会法要にあわせて、午後2時から33回忌法要を本堂再建のご苦労をおしのびして執り行う予定です。有縁の方々のご参詣をお待ちしております。



  島田義昭淨教寺教寺第24世住職


◆ 本堂再建の足跡


 旧本堂が焼失したのは昭和11年1月26日。その翌月には再建委員会が設置され、設計は門徒で奈良県の古社寺建築修理技師であった岸熊吉氏が無償で引き受けて下さいました。その年の暮れには図面も完成し、県の建築許可がおりました。
 しかし翌12年に日中戦争が勃発し、それに伴い臨時資金調整法という軍事産業以外の大規模工事が認められない法律が制定されて本堂の工事の許可が取り消されました。折しも住職は徴兵により約2年の不在期間があり、戦地より帰還した昭和15年には工事に着手できない状況でした。
住職は苦慮の末、再建委員で当時内閣内務参与官であった福井甚三氏に相談しました。この方が中央政府に嘆願して下さったお陰でこの時期では異例の許可を得ることができました。
 昭和16年ようやく工事に着手しました。工期は2年、材木は材辰の吉田氏に依頼し、それ以外の工事全般を岸氏の推薦であった京都の北尾棟梁(現在の伸和建設)が請け負いました。しかし物価の高騰や人材難、ガソリンの使用禁止等、工事は大変困難な状況で完成予定の昭和18年には上棟すらできていませんでした。
 昭和19年1月にようやく上棟式を行い、20年の春頃には屋根の下地まで完成しました。 当時、隣には警察署があり、この終戦間際に建物疎開といって周辺の民間の建物が取り壊されていきました。当然、淨教寺の本堂もその対象となり取り壊しの命令が下されました。その危機的状況を救ったのは楊枝春秀氏です。この方もまた門徒であり実際に建物疎開の指示を受けた警察署の防空主任で、時間を稼いで引き延ばしていただいたお陰で終戦の日を迎えることができました。 
 その後、屋根瓦を葺き、昭和30年頃から縁廻りや建具、閼伽棚の工事を行い、内陣の荘厳まで全て完成したのは昭和43年です。計画から32年、昭和の半分の年月を費やして正に奇跡的に再建された本堂は戦争という苦難な時代を門徒・総代が一丸となって乗り越えた歴史でもあります。



          昭和19年  本堂 上棟式


『淨教寺開創750年・瑞剱法師遺芳』記念誌
「恩海無量-淨教寺今昔おぼえがき- 前住職 島田和麿」より抜粋


奈良県高取町兵庫の教恩寺より父義昭が昭和4年に入山しました。
父・義昭(第24世)の時代は、満州事変、日中戦争、第2次世界大戦があり、わけても、昭和11年1月26日には、本堂全焼の悲運を享け、労苦多い人生でした。しかし、いささかもひるむことなく、ひたすら聞法と伝道につとめ、30年を費やして、りっぱに本堂を完成し、昭和61年3月18日、往生の素懐を遂げました。(中略)
忘れもしません、敗戦の色濃い昭和20年の冬のころ、本堂は建築半ばで、屋根はうすい杉板がのせられている状態でした。マッチ一本で火災となるときでしたから、となりの警察署の屋上にある戦時の管制塔をまもるため、軍部の方から2度も解体せよとの命令がくだったほどです。
その夜、B29爆撃機の編隊が近づき、もちろん、空襲警報のもと、灯火管制はしかれていました。折しも、淨教寺の西、200メートルほどの所にある木造3階建ての大きな旅館が火災となり、あいにくの西風で、火の粉というより、火ダルマのようなものが、本堂の屋根にバラバラと降ってきたのです。
当時、国民学校6年生の私は、すぐにバケツに水を汲み、足場をわたりつないで消火しようとこころみました。しかし、多勢に無勢という感じで、容赦なく広い屋根に火炎が落ちてきました。
ここまできたのに、また本堂が焼かれるかと悲泣のおもいでした。
しかし、本堂は無事だったのです。屋根全体に雪がつもっていました。
ジュンジュンと火の粉がとけてゆく音・・・・。いまだにその快音は耳をはなれません。



            昭和20年代 瓦工事 (西側より)


                昭和20年代 瓦工事 (正面より)