今月の法話      平成30年 8月

浄土真宗のお盆の迎え方  

お盆の起源

お盆は、『仏説盂蘭盆(うらぼん)経(きょう)』がもとになって起こった行事です。
このお経によれば、釈迦十大弟子の一人・目連(もくれん)尊者(そんじゃ)が、餓鬼(がき)道(どう)に落ちて苦しむ母親を救おうとし、お釈迦さまの教えに従い7月15日の自(じ)恣(し)の日(夏の三ヶ月の僧侶の修行の終わる日)に百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)を盆に盛り、修行を終えた僧侶たちに供養したところ、その僧侶たちの偉大な功徳によって母親を救うことができたという内容です。目連尊者の母が救われたよろこびが踊りに発展し「盆踊り」となったとも言われています。この故事によって、7月15日の盆供養は現在の父母のみならず過去七世の父母をも救い得ると考えられ、中国では南朝の梁(りょう)の武(ぶ)帝(てい)(在位502~549)の時代に多くのお寺で盂蘭盆会が勤められ、以後、中国の年中行事の一つとなって大いに流行したといわれます。日本にも7世紀の中ごろに伝わり、飛鳥寺の西に須弥山(しゅみせん)の形をつくって盂蘭盆会が催されたと伝えられています。



    藤原京の蓮 (畝傍山をバックに)


          さねかずらの花


浄土真宗のお盆の意義

盂蘭盆(ウラボン)とは、梵語(サンスクリット語)の音写で、倒懸(とうけん)と訳されます。倒懸(とうけん)とは、「倒(さか)さまに懸(か)けられた者」ということで「倒は、さかさまに、懸は、つるされた苦しみ」を意味します。
ですから『盂蘭盆経』とは 「倒(さか)さに懸(つるされた)者を救う方法を教えた経」という意味になります。
手足を縛られ、逆(さか)さまにつるされて苦しんでいるのは目連尊者のお母さまだけなのでしょうか。
お腹がポッコリ出て、骨と皮ばかりの餓鬼のすがたは、死後ばかりではありません。
餓鬼とは、物事に満足することなく、不平不満ばかりを言っているものが落ちる世界であり、その状態そのものが餓鬼の姿であるといわれます。
親鸞聖人は、「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多く、ひまなくして、・・・」と、ご自身のあり方を深く慚愧し、私たちにそのことを教えて下さいます。
実は、私の今の姿こそがこの餓鬼のすがたなのです。
お盆は亡き先祖を救う日ではなく、むしろもうすでにお浄土に往生し、救われているご先祖の導きによって、今、現に逆さまにつるされ苦しみ続けて、迷いの世界を流転しようとしている私自身を救う、み教えに出あう聞法精進の日であります。

お盆のお飾り

浄土真宗では、お盆だからといって、盆提灯を飾ったり、先祖の霊のために迎え火や送り火を焚いたり、精霊棚、精霊馬を用意したりするようなことは必要ありません。
普段のお飾り(お花・お香・ローソク・お仏飯・お餅・お菓子・果物)に「おそうめん」をお盆に盛ってお供えいたします。
浄土真宗では、お盆は亡くなられた方をご縁として「無常」を見つめ、私たちが真剣に仏法を聞かせていただく日とさせていただかねばならないと思います。
日ごろ、自分が死ぬ身であることを忘れ、いつまででも生きられるように思って、安心しきっていますが、“死”という無常の嵐は容赦なく襲い掛かってきます。
やがて必ず死ぬ身である私が、何のために生まれ、生きることにどういう意味があるのかという「生死出ずべき道」を、人生の根本問題としてお釈迦さまの教え聞き抜き、阿弥陀如来のご本願を顕かにされていかれた方が親鸞聖人です。

お盆は、家族や親戚の皆さんが一緒におつとめをし、親鸞聖人のみ教えを聞かせていただくことが一番です。



    大きく育ったソテツの花


アラカシの葉に
   クチブトゾウムシ


蓮の葉に
   クロウリハムシ