今月の法話 2019年 3月

仏法の聞ける時間 

親鸞聖人が七高僧と仰がれた第4祖の道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)の『安楽集』に次のような文章があります。

「浄度(じょうど)菩薩(ぼさつ)経(きょう)に説かれてあるところによると、人(にん)寿(じゅ)百年(ひゃくねん)として、夜がその半分を消して五十年を減ずる。残りの五十年のうちについて、十五才まではまだ善悪を知らず、八十歳以後は老耄(ろうもう)して弱るから老いの苦しみを受ける。これを除けば、ただ十五年あるだけである。
その中において、外には、王官の公務の追いまわされ、遠く征伐(せいばつ)や防備のために行き、あるいは牢獄(ろうごく)につながれたりする。また内には、一家の吉凶(きっきょう)など多くの事に振り回され、憂いに沈み心せわしく常に求めて満足することがない。
このように推し測ってみると、どれほどの時があって、仏道の行業を修めることができようか。こう考えると、何と哀(あわ)れなことではないか。どうしてこの世を厭(いと)わないでおられようか。」


これは、「人生100年の命があったとしても、人生の半分の50年は寝てるか、食べてるか、食事の用意、掃除、洗濯、お風呂・・・そんなことで過ぎ去ってしまいます。15才まではなかなか真剣に仏法の話を聞くことは出来ません。また、80歳以後は、眼も見えにくく、耳も聞こえにくく、思考能力もだんだん衰えて、老いることの辛さを実感しなければなりません。そんなこんなで100年の内の15年間が真剣に仏法を聞ける時間です。
しかし、その15年も、外では仕事に追いまわされ、会社の発展に苦労しなければならず、また内にあっては家族のためにこころをくだいて、ひとときも安らぐ時がありません。このように考えてみると、15年の内のどれほどの時間を仏法聴聞の時間として費やすことができますでしょうか?まことに哀れなことで、煩悩に満ちたこの世を厭(いと)い離れ、悟りの浄土を求めなければならないことです。」との意味です。

生まれ難(がた)い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞くことのできる環境に身を置いたとしても、「生死(しょうじ)出(い)ずべき道」「後生(ごしょう)の一大事」をこころにかけて時間を惜しんで仏法聴聞させていただくことの難しさをこのご文は戒(いまし)めて下さっています。

「二(に)河(が)白(びゃく)道(どう)」の譬(たと)えの中で、西(お浄土)へ向かう旅人が火の河、水の河の二河に架かる白道を進もうとするときに東の岸から、「釈迦(しゃか)の発遣(はっけん)」といわれるお釈迦さまの勧(すす)むる声を聞きます。「きみただ決定(けつじょう)してこの道を尋(たず)ねて行け。かならず死の難(なん)なけん。もし住(とど)まらばすなわち死せん」と。
また、西の岸からは、「弥陀(みだ)の招喚(しょうかん)」といわれる阿弥陀さまの喚び声を聞きます。「なんじ一心(いっしん)正念(しょうねん)にして直(ただ)ちに来(きた)れ、われよくなんじを護(まも)らん。すべて水火(すいか)の難(なん)に堕(だ)せんことを畏(おそ)れざれ」と。

この「汝一心正念にして直ちに来れ」というお言葉を、池山栄吉先生は「おねがいだから、直(す)ぐ来(き)ておくれ。」という意味であると大変慶ばれたということです。こちらが「お助け下さい」と、お願いするのではなく、阿弥陀さまの方が「私に助けさせておくれ。」と願って下さっておられることをこの言葉は教えて下さいます。

改めて、「厭離(おんり)穢土(えど)・欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)」(煩悩にまみれたこの穢土(えど)を厭(いと)い離れ、お浄土を欣(よろこ)び求めなければならない)との思いを深くして、仏縁の少ない中にも、朝・夕の礼拝の積み重ね、法事などの仏事における法座などを大切な仏縁として、一層お聴聞に励まなければならないと思います。ますますご精進いただくことを念じております。


     ハーデンベルギアの蕾


    中庭の池のほとりの
        ピンクの梅の花(八重)


    咲き始めた ハーデンベルギア


       花咲く ふきのとう