2019年(令和元年) 6月 法話



  エミレの鐘について解説される 元慶州市長 李 源植氏(左)


      睡蓮の花と陽の光

時嫌金玉 世尚文才(時の金玉を嫌い 世の文才をとうとぶ) 

奈良市と大韓民国の慶州市が姉妹都市提携(昭和45年(1970年)4月15日提携)をして、来年で50年の節目を迎えます。
淨教寺コールピュアランドをご指導いただいている荒井敦子先生が、長年の国際交流を評価され「慶州市名誉市民証」を贈られたことがご縁となり、3月に慶州市を訪問することが出来ました。
大川靖則元奈良市長、李源植元慶州市長のご案内で慶州の素晴らしい仏教文化に触れさせていただきました。

李源植元慶州市長に教えていただいた「時嫌金玉 世尚文才」の言葉は、1300年前、新羅時代につくられたエミレの鐘に刻まれたものです。意味は、金や玉などの財産になるものを嫌い、文と才すなわち文化と芸術を崇め尊重し大切にすべし。との当時の新羅人の思いがこの言葉に集約されています。
このエミレの鐘は、現在、国立慶州博物館の庭にあります。正式には「奉徳寺(봉덕사:ポンドクサ)神鐘」という名前で、8世紀前半に聖徳王(702-737在位)(성덕왕:ソンドクワン)が作らせた鐘だそうです。
物欲にまみれることなく、精神文化を大切にしていくことの重要性を時の権力者である聖徳王が発言されていることに感銘しました。

日本でも、同じく聖徳太子が仏教を受容し、仏教精神をを本にした「憲法十七条」を制定されたことは周知のとおりです。

「令和」の元号の「和」のもとは「憲法十七条」におかれているようです。
改めて、「憲法十七条」の第1条、第2条、第10条を読み、親鸞聖人が尊ばれた聖徳太子の仏教精神を再確認したいと思います。

第1条:一にいわく、和(やわらぎ)を以って貴しとなし、忤(さから)うことなきを宗(むね)となす。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れるもの少なし。ここを以ってあるいは君・父に順(したが)わず、たちまち隣・里に違(たが)う。しかれども上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなはち事(こと)の理(ことわり)自(おのずから)に通(とお)る。何事か成らざらん。

意味:第一条 うちとけて相互になごみあうこと(平和)をもっとも大切にし、背き逆らわないことを規範とせよ。人間にはみな自分の仲間というものがあり、また物事の道理をわきまえた者は少ない。そのために、リーダーや親に従わず、隣り近所で争いを起こすことになってしまうのだ。だが、上も下も和らいで睦まじく、執われの心を離れて問題を話し合えるなら、自然に事実と真理が一致する。そうすれば実現できないことは何もない。

第2条:二にいわく、篤(あつ)く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり。すなわち、四生(よつのうまれ)に終帰(ついのよりどころ)・万国(よろずのくに)の極宗(きわめのむね)なり。何れの世・何れの人かこの法(みのり)を貴ばざらん。人はなはだ悪(あ)しきものすくなし。よく教えらるれば従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

意味:第二条 まごころから三宝を敬え。三宝とは、佛と、その真理の教え(法)と、それに従う人々(僧)である。それはすべての生きとし生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国の究極の規範である。どんな時代、どんな人がこの真理を貴ばずにいられるだろう。人間には極悪のものはいない。よく教えれば(真理に)従うものである。もし三宝をよりどころにするのでなければ、他に何によって我執にとらわれたよこしまな曲がった心や行いを正すことができようか。

第10条: 十にいわく、こころの忿(いか)りを絶ち、おもての瞋(いか)りを棄(す)てて、人の違(たが)うことを怒(いか)らざれ。人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。かれ是(ぜ)とすれば、われは非(ひ)とする。われ是とすれば、かれ非とす。われはかならずしも聖(ひじり)にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぶ)のみ。是非の理、?(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋るといえども、かえってわが失を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

意味:第十条 心の中の怒りを絶ち、表情に出る怒りを捨て、人が逆らっても激怒してはならない。人にはみなそれぞれの心がある。その心にはおのおのこだわるところがある。彼が正しいと考えることを、私はまちがっていると考え、私が正しいと考えることを、かれはまちがっていると考える。私がかならずしも聖者であるわけではなく、彼が愚者であるわけではない。どちらも共に凡夫にすぎないのである。正しいかまちがっているかの道理を、誰が〔絶対的に〕判定できるだろうか。お互いに賢者であり愚者であるのは、金の輪にどこという端がないようなものである。このゆえに、他人が〔自分に対して〕怒っても、むしろ自分のほうに過失がないか反省せよ。自分一人が真理をつかんでいても、多くの人に従って同じように行動せよ。




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