2019年(令和元年) 10月 法話

「 御正忌の章 」 

蓮如上人『御文章』5帖11通 「御正忌の章」

そもそも、この御正忌(ごしょうき)のうちに参詣いたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、
聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得(ぎゃくとく)せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。
もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定(けつじょう)せずは今度の報土の往生は不定なり。
されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。
されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。
されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。
いそぎて安心決定して、浄土の往生ねがふべきなり。
(後略)

(意 訳)

さて、この御正忌にこころざしをもって参詣し、報恩謝徳をあらわそうと思って、
親鸞聖人のご真影の前におまいりする人々の中には、信心をすでに得た人もあるでしょう。
また不信心の人もあるでしょう。これは何よりも大事なことです。
 というのは信心を決定しなければ、このたびの極楽浄土への往生はできないからです。
 ですから、不信心の人もすみやかに決定の信心をもつべきです。
人間界は、なにごとも定まりのない世界です。
 極楽浄土は永遠に変わることのない国であります。ですから、定まりのない人間界にいるよりも、変わることのない極楽浄土に生まれることを願うべきなのです。
 そこで、浄土真宗において信心を本としているそのわけをよく知らなければ、むなしく、無益なことになります。
急いで安心を決定し、浄土往生を願わなければなりません。(後略)

御正忌とは、「御正忌報恩講」と申しまして、親鸞聖人の祥月命日(1月16日)のご法事のことです。淨教寺では10月19日20日とお勤めしています。それについて、本願寺第8代目の蓮如上人は『御文章』の中で、御正忌報恩講に参詣する人々の中に、信心の人も不信心の人もあるが、そのことは大事なことである、としたうえで、「そのゆゑは…」からは、その大事なわけを指摘して信心を勧められるのです。
そこで、信心決定と浄土往生を願うべきことが説かれています。また後半では、
「南無阿弥陀仏」の六字の解釈をとおして他力の信心を明らかにされ、信心を得ることを勧めてくださっています。ぜひ、みなさまも「報恩講」にご参詣いただきお聴聞下さい。



             キンモクセイ


             ヤマトシジミ


「第220回法話テープ拝聴会」 稲垣瑞劔法師(昭和四十年十月三十日奈良法雷会)より引用
大信海(六)「このまま」(後席) 令和元年9月9日【淨教寺会館】

何ぞ出来ると思うとったら解決出来ひんで。信心頂ける、念仏称えられる、嬉しい心が起こります、妙好人のような生活が出来ます、てな気持ちを持っとったら有難いご安心・ご信心と言うものは頂かれへんわ。

そんな事はもう抜きもんや。抜きにしてな、今死んで行ったら地獄や。地獄へ堕ちつつあるところの、私が此処に居るんやがな、それに対しておっしゃる。

このな、この、このあたり、此処から地獄の火や、この火は地獄から出ておる、火からジューッと盛り上がっておるんやもんジューッと、こやつは。これはどう言う事かいな。

これから地獄に堕ちるんじゃない、地獄の火がビューッと燃え上がっておるんやもん。

ここで命のある間は聞かれるよってに阿弥陀はんが「そのまま来いよー」と、おっしゃるやろ。

地獄に堕ちとるんやで、ほんま言うたら、阿弥陀さんの目から見たら。悪い事をしたら地獄がボーッと、火がもう、阿弥陀さんやったらご存知や、我々は分らんけどもな。

怒ったり喧嘩したり欲を出したり、もう、しとったら、その時に地獄の火がビューッと、火が燃え上がっておるんや。これに座っておるけども、座っておる畳の下からビューッと燃え上がっておるんや。見えんだけにボカーンとしとるねん。地獄の中で説教を聞きよるねん。

これから堕ちる、これから堕ちるんじゃあらへんが今堕ちとるんじゃ。で命のある間は地獄へ堕ちとっても本願力が強いから、手強いから聞かしてもらえるんじゃ。

命が無うなったらあかへん。危ないこっちゃで、そりゃもう危ない芸当をしよるんや。

これから堕ちるんと違うんやで、地獄の火が燃え上がっておるんやで、見えんだけのことや。もう地獄に堕ちとるんや。

堕ちとる中からして、地獄の中から救い出してもらえる法が有るんじゃ。

人間と言う皮をかぶって、解脱の耳を澄まし渇仰(かつごう)の首(こうべ)をうな垂れて聴聞しておるというと「そのままやで、そのまま来いよ」という喚び声が聞かれるだけの資格だけはある、それだけは有るんや。

真剣になったら聞かれるだけのものや。それが人道(にんどう)と言うこと、犬や猫、牛や馬と違うとこや、人間様は違うんじゃ。

人間の姿をとって生まれなんだら、この佛に成る道は無いんじゃ。犬や猫、牛や馬にな有難い如来様の御本願を聞かしたって聞かへんやろがな。ワンワン、ニャンニャン言うて、牛やったらモ~と言うとるだけやが。嗚呼あんな物に生まれたらどないも仕様がないやろ。まぁせめて人間に生まれて来なんだらあかん。

そこで「まず三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり」と言う。「身はいやしくとも畜生におとらんや、(家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。)心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず」(横川法語)と書いてあるな。こういう恰好になっとるんやで。



             あかまんま


               たますだれ