2019年(令和元年) 12月 法話

滋賀、三井寺・法明院  

明治21年(1888)6月5日「奈良の諸君に告ぐ!」という講演を淨教寺本堂でされたアーネスト・F・フェノロサゆかりのお寺が三井寺・法明院です。11月23日快晴のもと、谷幸三先生とご一緒に自然観察をしながら法明院、三井寺、等正寺(蓮如上人・源兵衛親子ゆかりの寺)を散策してきました。

アーネスト・F・フェノロサと法明院

アーネスト・F・フェノロサは1853年、アメリカ東海岸のマサチューセッツ州に生まれました。 ハーバード大学で哲学を学んだ後、 エドワード・モースの紹介で明治11年(1878)に来日、 政府のお雇い外国人教師として東京帝国大学の教壇に立ち、経済学、政治学哲学を教えました。 若干25歳の 若さでした。

滞在中、京都、奈良に足繁く通い、日本の美に触れ、のち岡倉天心とともに寺社、旧家の美術調査を行いました。
その間、町田久成(東京国立博物館初代館長)を縁として、法明院第9世・桜井敬徳住職と出会い、仏教に帰依し明治18年(1885)受戒し「諦信」と称しました。

明治の初期、富国強兵策をとる日本は欧州崇拝の機運が支配していました。 日本美術・仏教美術も例外ではなく、まさに存亡の危機(廃仏毀釈)に瀕していました。 奈良興福寺の五重の塔が、当時僅か25円で売りに出され、 北斎、歌麿の名画の価値もまったく顧みられませんでした。 そのような中で「美術真説」「浮世絵史」「北斎画風変遷史」などの著書で日本の美術史を系統立て、

また、明治21年(1888)6月5日淨教寺本堂で「奈良の諸君に告ぐ!」という講演をされ、日本文化、美術の素晴らしさを再認識するよう訴えました。明治23年その功績を認められ勲三等を授与されています。

また、フェノロサは岡倉天心とともに東京美術学校(現・東京芸術大学)の設立に努めますが 明治23年(1890)ボストン美術館東洋部長に就任のため帰国します。
明治29年(1896)再来日し、メアリー夫人と三井寺、法明院を訪ねます。二度の法明院滞在中、茶室で寝起きし、客殿で訪れる人々をもてなしました。 客殿には彼が愛用したさまざまな遺品、英国ジョンストン社製の地球儀、月の表面も観測できるフランスヴイヨン社製の望遠鏡、ランプ、蓄音機などが今も使用できるかのような状態で保存されているそうです。

法明院の庭園からの眺めは雄大で、眼下に広がる琵琶湖、その向こうに三上山、遠くは伊吹連峰までもが望めます。 遠く異国の地で琵琶湖に浮かぶ月をフェノロサはどんな思いで眺めていたのでしょう。

明治41年、55歳の若さでヨーロッパ各地に日本文化の素晴らしさについて講演中にロンドンで急死します。遺体はロンドンで火葬し、メアリー夫人より遺骨の一部が日本へ送られ、法明院に埋葬して欲しいと依頼されました。 翌年その費用を東京美術学校が拠出し、墓碑が完成しました。 法明院庭園の奥にフェノロサの墓地があります。

JR湖西線・大津京駅より徒歩20分ほどの、琵琶湖を一望できる小高い場所に法明院はあります。ぜひ一度訪ねてみて下さい。