2020年(令和2年) 2月 法話

英語で学ぼう浄土真宗 
 
『本願寺新報』(令和2年1月1日号)の特集が「英語で学ぼう浄土真宗」というものでした。今年は、東京オリンピック・パラリンピックの年でもあり世界中から多くの方々が日本に来られます。そんな方々に少しでも浄土真宗の素晴らしさをお伝えできたらとの思いで特集が組まれました。
淨教寺にご縁の深い稲垣瑞剱先生も幼少の頃から教会に通い英語をマスターしキリスト教と仏教の違いを学び、戦後いち早く『歎異抄』、『教行信証』(一部)を英訳されました。その本がもとになってヨーロッパの方々が浄土真宗に帰依されるご縁が出来ました。(英語でお読みになりたい方はお申し出ください。)
また、『本願寺新報』の特集では、日本語を英語に翻訳することの難しさを紹介していましたのでここに一部を掲載させていただきます。

「言語の違いから見える浄土真宗の教え」本願寺勧学寮頭 徳永一道先生

「有り難う」と「Thank you」

聖典の翻訳というのは単なる言葉の置き換えではありません。たとえば、日本語を英語に翻訳する場合、和英辞典を見て一語ずつ言葉を置き換えていけば英訳ができるというようなものではないのです。早い話が「有り難う」は「Thank you」ではなく、「さようなら」は「Good-bye」ではない、という認識がまず必要となってきます。これらは、たまたま同じ状況の中で用いられる表現として一致するだけであって、意味そのものから言えばほとんどつながりのないものだと言わざるをえないのです。
「有り難う」は「あなたのご親切は誠に有り難い」と使う場合、「(あなたのご親切は)有ることが難しい」、すなわち「めったにみられないほどのものだ」ということで、つまりは「あなたのご親切」が主語となった言葉になります。それに対して「Thank you」は「(私が)あなたに感謝している」となり、全く違った意味合いとなります。同様に「さようなら」も「左様であるならばお別れいたします」であって、「Good bye」は「神さまと一緒に行きなさい」ですから、意味合いは全く違います。

日本語がそのまま英語に置き換えられるものではないということを理解してもらえたでしょうか。すると「有り難う」は「Thank you」でななく、また「さようなら」は「Good bye」ではないという見方が必然的に生まれてくるはずです。さらに文章で言えば「向こうに山が見える」「小鳥の鳴き声が聞こえる」と何気なく使っている日本語ですが、これは絶対に英語には訳せないのです。あえて訳すとすれば、文章は「私は向こうの山を見ている」(I see the mountain in the distance.)、「私は小鳥の鳴き声を聞いている」(I hear the birds singing.)となってしまいます。つまりは日本語には「山が見える」あるいは「鳴き声が聞こえる」という「他力的」な世界観があるのです。それを「私が見ている」「私が聞いている」という「自力的?」なそれに変容してしまう、というきわめて深刻な問題が生じてくるということです。

親鸞聖人の教えの中で大事にされている「信心」を、私どもの聖典翻訳ではキリスト教でいう「faith(信仰)」とは訳しません。キリスト教の「faith」は、「I have faith in God.」となり、主語はあくまでも「I(私)」です。しかし、浄土真宗の教えは「阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)が私にはたらいてくださっている」となり、主語は「阿弥陀さま」です。
したがって「信心」は「entrusting heart(ゆだねる心)」と翻訳しているのです。