2020年(令和2年) 3月 法話

幸福来らば敵と思え
  
仏教本来の目的は、「煩悩を断じて、涅槃を得る」ということが大原則です。
煩悩とは、梵語クレーシャ (kleśa) の意訳。 身心を煩わせ、 悩ませる精神作用の総称。 『唯信鈔文意』には 「煩は身をわづらはす、 悩はこころをなやます」 とあります。 衆生はこうした煩悩によって悪業を起こし、 苦悩を受けて迷界に流転します。そのため、 煩悩を滅したさとりの境地(涅槃)にいたることが仏教の究極的な実践目的とされますが、
浄土真宗では、『正信偈』に

不断(ふだん)煩悩(ぼんのう)得(とく)涅槃(ねはん) ( 煩悩(ぼんのう)を断(だん)ぜずして涅(ね)槃(はん)を得(う)るなり。)とあります。

言葉をかえていえば、「煩悩の火が燃えているけれども、火が消えている。」
ということになります。これはどう理解したらよいのでしょう?

「正信念仏偈」のこの箇所は、 『往生論註』の 「すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得」 にもとづいて示されたものですが、 このなか、 「涅槃分」 について 「涅槃にいたるべき位」、 すなわち正定聚の位と解釈し、 「正定聚の位につくことができる」 と解釈する見方もあります。蓮如上人は『正信偈大意』の中で、
『「能発一念喜愛心」といふは、一念歓喜の信心のことなり
「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆへに、わが身には煩悩を断ぜざれども仏のかたよりは、つゐに涅槃にいたるべき分にさだまるものなり』
と、解釈され、「涅槃にいたるべき分にさだまるものなり」と、「正定聚の位」として解釈されます。

親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中で、『「不(ふ)断(だん)煩悩(ぼんのう)」 は煩悩(ぼんのう)をたちすてずしてといふ。「得(とく)涅(ね)槃(はん)」 と申(もう)すは無(む)上(じょう)大(だい)涅(ね)槃(はん)をさとるをうるとしるべし。』と、解釈しておられます。
すなわち、「煩悩を通して、如来の涅槃の徳を感得していく」、ということです。

煩悩具足の凡夫である私が、如来様の智慧に導かれている存在であるということです。
如来様の智慧と慈悲が私の行動の根源的なところで働いていてくれているということです。

私は、毎日煩悩の炎を燃やしているけれども、それが浅ましいことで、あってはならないことであると気づかされ、思いかえされていくのです。
苦しみ、悩む身であることによって、絶えず法(教え・阿弥陀仏の願い)に目覚めさせられていくのです。

「能発(のうほつ)一念(いちねん)喜(き)愛(あい)心(しん)」とは、如来様から智慧と力が与えられるということです。その智慧と力によって私たちは人生の荒波を乗り越えていくことができるのです。これが「正定聚」の生き方であり、「不(ふ)断(だん)煩悩(ぼんのう)得(とく)涅(ね)槃(はん)」、煩悩を断ち切らずして、むしろ煩悩の真っただ中で如来の涅槃の徳を確認していく在り方がこの御文の意味するところです。

そうすると、むしろ煩悩は大切な法に気付かせてくれる大きなはたらき、先生みたいなものであると言えます。

瑞剱先生のおうたに
「幸福来(きた)らば、敵(てき)と思え。苦しみ来(きた)らば、
惰眠(だみん)を覚(さ)ます他力(たりき)大行(だいぎょう)の催促(さいそく)なりと思うべし。」

とあります。尊く味わいたいお歌です。




     ピンクユキヤナギ


        ふきのとう


    ツルニチニチソウ


                  ヤマガラ