2020年(令和2年) 6月 法話


春の永代経法要・ユーチューブ配信開始 



   永代経法要  お勤めの様子


  別修永代経  進納者  法名軸


5月20日の永代経法要は、新型コロナウイルス感染防止のため参詣者なしで、僧侶、寺族のものでお勤めいたしました。また、その様子を録画しまして動画として配信し、ステイホーム、在宅の方にも画面を通してお参りいただけるようにしました。
「ユーチューブ 奈良 三条 浄教寺」で検索してみてください。
動画のタイトルは「春の永代経法要 2020(令和2年)5月20日」と「永代経法要 法話(住職)」です。

永代経法要は、今は亡き、お父様、お母様、おじいちゃま、おばあちゃま、ご主人、奥様、子供さん、お孫さん、ご兄弟、ご親戚、有縁の方々をご縁として、今この場に手を合わせ坐らせていただいていることを感謝し、その方々を思い浮かべながら、お釈迦様の真実の教えである「お経」に出会っていただく尊い仏縁です。
リビングでもパソコンの前でも結構ですし、お仏壇のある方はお灯りを上げ、お線香を焚いてご一緒にお参りください。

法要では、『仏説無量寿経』というお経をお勤めいたします。ご一緒にお経の本を持ってお勤めしていただいても結構ですし、読経をお聞きになりながら静かに手を合わせ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏していただいても結構です。

また、現在新型コロナウイルスの脅威が続いております。あわせて一日も早い収束を念じましてお勤めさせていただきます。

お勤めの後、利井唯明先生からご法話を拝聴させていただく予定でしたが、紙上法話を頂戴いたしましたので、ここに掲載させていただきます。繰り返しお読みいただきますれば幸甚です。



         スイレン


            ナミアゲハ


ご法話 「明日とも知れぬ命を生きる」

大阪 高槻 常見寺 住職  利井 唯明 先生


 新型コロナウイルス感染予防・拡大防止の為に出されていた緊急事態宣言が5月7日から5月31日までに延長になりました。この報道を聞いて「あと少し頑張ろう」と今一度気を引き締めた事でしょう。か?もちろんそういう思いもあったかと思いますが、心のどこかで「やれやれ、どうせ私たちには関係ないのに…出歩いたところで移りもしないのに…まだ不便な生活が続くのか…」と、モヤモヤと燻(くすぶ)るような思いがあったのではないでしょうか?新型コロナウイルスに私たちは生活面だけでなく心も振り回されっぱなしです。

中国で新型コロナウイルスが発生した当初や、クルーズ船で感染者が出て日本に感染が上陸した時でも、どこかテレビの向こう側の事で他人事のように心配したり批判したりしてました。

 外国人を見かけては感染者じゃないかと怪訝(けげん)な顔で避けたり、感染者の出た地域では、あの病院・あの学校でと名前が出れば、たとえ感染をしてなくてもその関係者や家族までもがいわれの無い中傷や風評被害を受ける事もありました。
 卒業式や入学・入社式などが中止になり緊急事態宣言が出されると、はじめてコロナの影響を身近に感じるようになりましたが、死の危険が身に迫っていると言うよりは、生活の不自由さばかりに目が行き不平不満を募らせていました。

 毎日のように感染者が何人、死亡者が何人とテレビで報道されても、数字を目で追うばかりでピンと来ていませんでした。有名人がコロナで亡くなったと報道されたとき、驚愕し、ようやく死を感じたものです。けれどそうした危機感も長く続かず、緊急事態宣言の延長が決まった瞬間に落胆し、まだ続くのかと辟易(へきえき)したものです。

これら全てが自分に当てはまる訳ではありませんが私たちは凡夫です。自己中心的な欲求を中心に生きています。それが制限され奪われれば他人に対して不安や不満を懐き、猜疑(さいぎ)心(しん)や拒絶など邪心(じゃしん)・悪心(あくしん)が溢(あふ)れ起こって来るものです。それでいて死に対してはどれほど身に迫って来ていても、どこかで「自分は大丈夫」と根拠のない自信を持っているのです。
5月に入って感染者も減ったし、これまでも大丈夫だったんだから「もう大丈夫だろう」と思い込んでませんか?恐らくは緊急事態宣言が解除されたら「もう安心」となるに違いありません。

さて、本当に「もう安心」なのでしょうか?

先日、家で映画「君の膵臓(すいぞう)が食べたい」を観てました。2017年に公開された切ない恋愛映画で、当時はそのタイトルからも話題になった映画です。
劇中で膵臓(すいぞう)の病に冒されながらも何気ない毎日を過ごす主人公の少女に、病気を知る唯一の同級生の男の子は「残り少ない命をこんな事に使ってていいの?」とたしなめると、彼女は「そっちこそ、もしかしたら明日突然君が先に死ぬかもしれないのに。私も君も一日の価値は一緒だよ」そう言い返すのです。
 終盤、病院から一時退院をした彼女は彼に会いに行くのですが、その途中で通り魔事件に巻き込まれて死んでしまうのです。同級生の彼は「甘えていたんだ、残りわずかな余命を彼女が全うできるものだと思い込んでたんだ。明日どうなるか判らない。そう彼女に教わったのに」と後悔をするのです。

私たちは新型コロナウイルスにかかったらと怯え、緊急事態宣言が解除されたら安心と高を括ってはいないでしょうか?
新型コロナウイルスが蔓延している中でも、交通事故や他の病気で死ぬかもしれない、事件や事故、災害に巻き込まれるかも知れない。それはコロナウイルスが収束した後でも同じです。仮にそうした事で命を落とさなくても必ず命終える時が来ます。ちょっとした気温の変化にも体が耐えられなくなって命尽きる時がくるのです。明日は何しようと考えながらも明日が来ない時が来るのです。

親鸞聖人の御時代にも飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)で多くの方が亡くなり、鴨川が死体で埋まるほどと言われる非常事態が起こります。その中で聖人は「生死(しょうじ)無常(むじょう)のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ」と述べられるのです。(『御消息(ごしょうそく)』16通『註釈版』p771)

 さまざまな因縁に支えられているこの身も、諸行無常のことわりの上には、わずかな縁でも変れば、この身を支えきれなくなってすぐさまに身命(しんめい)尽きてしまうのです。よくよく仏さまが説いて下さっています。明日あるという保障は何処にもない。明日どころか一瞬先も生きている保障などない。そんな中だから、死ぬ事が不思議なのではない。むしろ今、生きている事の方が不思議なのだ。そうお聞かせ頂いたなら、死はおどろくべき事ではないと言うのです。

浄土真宗のみ教えは浄土があるから死を恐れるなと言う宗教ではありません。キチンと死と向き合ったとき、いつ死ぬとも知れぬ命が今支えられていると喜び、さまざまなご縁に感謝をしながら私もまた誰かを支えながら精一杯に生き抜いていこうという力となるのです。そして、いつ力尽きようとも浄土に参らせて頂き、仏さまに成らせて頂いた暁(あかつき)には一切を照らすお慈悲のおはたらきをさせて頂けるのです。
 生死(しょうじ)出(い)ずべき道を歩んでこそ、本当に安心して生きていけるのです。お念仏と共に命と向き合う日暮しをさせて頂きましょう。
       
                       
合 掌 (令和2年 5月13日)



      グミの実


      キイロテントウ



    羽化したばかりの
     クロスジギンヤンマのオス