2020年(令和2年) 9月 法話
8月8日 法燈会 阿弥陀如来のおあかり |
あじわい
バナナやカレーライスの味わいを伝えることは簡単なように思いますが、種類によって、作る人によって甘さや辛さなど、さまざまな違いがあるでしょう。ましてや、話す相手が食べたことのない食べ物の味、食材そのものを伝えることはなかなか難しいものです。難しいというよりは不可能かもしれません。
それと同じように、仏法の世界を伝えることは難しいという意味と同時にそれを受け止めていくことの難しさを込めた言葉が「あじわい」という言葉で表現され「仏法のあじわい・浄土真宗のあじわい」といい表されるのです。有名なお話に、
昔、ひとりの王があって、象を見たことのない人を集め、目かくしして象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせた。
象の牙(きば)に触れた者は、象は大きな人参(にんじん)のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵(きね)のようなものであるといい、足に触れた者は、臼(うす)のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。
人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。
死によっても失われず、煩悩の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、仏(ほとけ)と法によるもののほかは、でき得ないのである。
(『仏教聖典』仏教伝道協会より)
全体像を捉えることの難しい仏法の世界を親鸞聖人は、『教行信証』総序の文に
「ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、
無碍(むげ)の光明(こうみょう)は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり。」
現代語訳:ひそかに想うに、人の思いをはるかに超えて万人を包む広大な阿弥陀仏の本願は、渡りがたい苦悩の海を渡したまう大いなる船であり、すべての人をさわりなく救いたまう阿弥陀仏の光明は、私たちの無智の闇をやぶって、心に真実の明るさをもたらす、太陽のように輝く智慧の徳そのものです。と、示されました。
聞法の秋、彼岸会・報恩講と行事が続きます。コロナ感染予防対策をとりながら開催してまいります。ぜひお聴聞を通して浄土真宗・仏法の世界の「あじわい」を深めていってください。
8月6日 平和の鐘 (8:15 広島原爆投下時間) |
8月22日 夏休み子ども会 花火 (ナイアガラ) |
令和2年 8月22日 夏休み子ども会 記念写真 |