2020年(令和2年) 10月 法話

お 墓 

親鸞聖人のお墓 (大谷本廟(おおたにほんびょう)



    廟堂創立(親鸞聖人 御絵伝)
         文永9年 廟堂が建立され、ご影像が安置される


 浄土真宗を開かれた宗祖親鸞聖人は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有(じんう)僧都(そうず)の住坊「善法坊(ぜんほうぼう)」(現在の角坊(すみのぼう))において90歳でご往生になり、鳥辺山(とりべやま)南辺(現在の大谷本廟の「御荼毘所(おだびしょ)」)で火葬され、ご遺骨は鳥辺野北辺の 「大谷」 に納められました。

 親鸞聖人のご往生10年後の1272(文永(ぶんえい)9)年の冬、親鸞聖人の末娘である覚信尼公(かくしんにこう)が諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を吉水(よしみず)の北辺に改葬し、六角の廟堂を建て、ご影像を安置されました。廟堂建立の地は、現在の知恩院の山門の北に位置する崇泰院(そうたいいん)付近とされています。

 この廟堂は「大谷影堂」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、浄土真宗の中心となります。第8代蓮如上人時代の「寛正(かんしょう)の法難」(1465年)により比叡山衆徒に破却されるまで、およそ200年間、諸国の門弟や同行によって護持されてきました。以後、本願寺は各地を移転し、天正19年(1591年)、本願寺は京都、堀川七条に落ち着き、親鸞聖人のご廟所は、第12代准如上人時代の1603(慶長8)年、京都、東山五条に移転し、この地を「大谷本廟(西大谷)」と呼ぶようになり、今日まで多くの門信徒の方々により護持されています。



           インド クシナガラ 涅槃堂


お釈迦さまのお骨(仏舎利(ぶっしゃり))・お墓

 お釈迦さまは、インド・クシナガラで涅槃に入られました。現在その地には涅槃堂(ねはんどう)が建てられています。お骨(仏舎利)は、クシナガラの統治部族マッラ族が仏舎利の専有を表明しましたが、仏教を国教とする周辺国との間に仏舎利を巡って争いが発生する事態となりました。結果として8等分され、それに、容器と残った灰を加えて周辺内外の10か所の寺院に奉納されました。

 200年の後、インドの敬虔な仏教徒であったマウリヤ朝のアショーカ王はインド統一を果たした後、インド全土8か所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘し、遺骨は細かく粉砕し、一粒一粒に分け、灰燼(かいじん)は微量ずつに小分けする作業を行って、最終的に周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布を実施しました。

 仏教が伝来した中国では、多くの僧が仏舎利の奉納されたインドやタイに赴き、仏舎利の収められたストゥーパ(仏舎利を納骨する円すい形の仏塔)の前で供養した宝石類を「仏舎利の代替品」として持ち帰り、それを自らの寺の仏塔に納めました。この宝石を仏舎利の代用として奉納する手法は古くから日本でも行われてきました。

 日本に現存する最古のストゥーパである法隆寺五重塔の解体調査を行った関野(せきの)貞(ただし)氏の息子・関野克(まさる)氏によると、法隆寺五重塔の心礎(しんそ)(心柱(しんばしら)の礎石)に掘られた穴に納められていた仏舎利の正体はダイヤモンドだったということです。



    ひょっこり オンブバッタ(スイレンの葉)


故人を偲び仏教・浄土真宗の教えに出会う場としての墓地

お釈迦さまのお骨(仏舎利)を安置する場所に塔が立てられ、周辺に経典を学ぶ伽藍が整備されて寺院の形態が整っていきました。
浄土真宗も親鸞聖人のお骨を安置する墓地が廟所として整備され、み教えを聴聞する本願寺として発展していきました。
お墓は単に故人を偲んでお参りするだけではなく、その方が拠りどころとして信仰されてきた教え(仏教・浄土真宗)に出会い、み教えを学ぶ場であることが理想的だと思います。

そう考えると、ご縁のあるお寺の境内にあって、いつでも本堂にお参りして、教えにふれる環境にあることが望ましいと思います。淨教寺にも墓地、納骨堂等ありますのでご希望の方はご相談下さい。

お寺の境内にない場合でも、お墓参りのあとは、お寺に聴聞に行くとか、お家で仏教関係の書物に目を通すとか、インターネットで仏教関連の動画を見るとか、そういう時間を作ることが故人と改めて出会っていくことになると思います。



      白い彼岸花に 茶色のオンブバッタ