2020年(令和2年) 11月 法話


霧の中を行く 衣 湿る 


 幕の張られた山門から本堂を望む

    宗祖讃仰作法のお勤め

     ご参詣のみなさん


コロナ禍の中、感染防止対策をとりながら令和二年の報恩講(10月19日、20日)を近隣ご法中にもご参詣いただき無事勤めさせていただくことが出来ました。貴島信行先生からご法話をしていただきました。


  報恩講法要 ご講師 貴島信行先生


仏法の中の生活を大切にしていくことを二つの事例を取り上げてお話し下さいました。
一つ目は、曹洞宗の開祖道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の中の「
霧の中を行く 衣湿る」の言葉を紹介して下さいました。その言葉の元は、
霧露(むろ)の中に行くがごとく
いつぬるるとも、おぼえざれども、
自然に衣のうるほふが如くに。

という、有名な言葉だそうです。

霧の中をお坊さんが歩いていると、気がついてみたらしっとりと自分の衣が濡れていたよ、という光景です。ここで、大事なことは、この若い修行僧は霧に濡らしてもらおうなんていう意識は微塵もなかったと思います。霧のほうもこの若い修行僧の衣を濡らしてやろうという意識もない。霧も歩いている坊さんもどっちも意識しない。しかし長いこと霧の中を歩いていたら、ある時ふと気がついてみると衣がびっしょりと濡れていた。それが本当の教化だということです。簡単な言葉でいえば教育です。ですから、本当の意味の教育というのは、大声を張り上げたり、特別な講義をしてそれだけで終わり、というのでなくて、普段の生活の中でジワリジワリと浸透して、身体全身に沁み込んでいくような、それが仏法でいう本当の教化(教育)だと思います。
参考「わが師を語る―武井哲應の教え―書家 相田 みつを」より

二つ目は、蓮如上人の『御一代記聞書』に「
その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふ」とのお言葉があります。
籠で水を汲んでも、すき間から漏れて汲むことは出来ません。仏法聴聞しても、大切なご法話の内容を忘れてしまって、籠から水が漏れるが如くです。との質問にはじめのお言葉で答えられました。
籠である「わが身」を水に浸けることによって水が竹に染み込んでいく。常に仏法の水に浸しておけば、水を汲んだことと同じである。常に仏法の環境に身を置いておくことの大切さを教えていただくお言葉です。

この二つのお話を通じて、道元禅師のお言葉と蓮如上人のお言葉に合い通じる世界を感じます。

日々の生活の中に仏法のご縁がちりばめられているということです。むしろ、仏法の中の生活(日暮し)ということです。お仏壇に向かい、朝晩の礼拝をする習慣を大切にしていく。そして常に教えに耳を傾け、仏書に目を通していく時間の中で、仏法中の生活であることに気付かされていくのです。


報恩講のお参りしてくれた
          アサギマダラ
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 「奈良 時の雫 淨教寺」で検索
  (映像作家 保山耕一氏)



  秋のトンボ   アキアカネ




   今年も 「菊花展」 開催中