2021年(令和3年) 3月 法話

聖徳太子1400年御遠忌 



 聖徳太子像 淨教寺 内陣


今年は、推古30年(622)2月22日に聖徳太子さまが亡くなられてから1399年、1400回御遠忌をむかえます。各宗派で法要が執り行われます。ご廟所のある大阪府太子町の叡(えい)福寺(ふくじ)では4月21日(水)11:30から浄土真宗本願寺派(西本願寺)の法要が執り行われます。

法隆寺管長の古谷(ふるや)正覚(しょうかく)住職のお言葉を紹介いたします。

「聖徳太子は敏達(びだつ)3年(574)に生まれられ、推古(すいこ)30年(622)、49歳で薨去(こうきょ)されています。聖徳太子がおられた時代は、朝鮮半島の外交問題や国内の政治などで、氏族どうしの争いが絶えない時代であり、この様な時代に、太子は平和な世の中を作りたいと考えられ、その実現のために仏教を取り入れ、広めたいと考えられました。

 推古元年(593)には推古天皇が即位、聖徳太子は摂政(せっしょう)となられ、翌2年に「三宝(さんぽう)興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)」を発しておられます。聖徳太子は仏教を国の教えとし、仏教を広めるために、寺の造立を始められたのです。

 そして中国の文化を取り入れるための「遣隋使(けんずいし)」の派遣、個人の能力を重視する「冠位(かんい)十二階(じゅうにかい)」の制定、争いのない平和な国を実現するために、推古12年(604)には『十七条(じゅうしちじょうじょう)憲法(けんぽう)』が定められました。

 『十七条憲法』の第一条は、憲法の根幹となる最も重要な条文で
「和(わ)を以(もっ)て貴(とうと)しと為(な)し、忤(さから)うこと無(な)きを宗(むね)と為(せ)よ」と記され、
すべての人々が、お互いに穏やかに仲良く和合する「和の精神」が示されています。

第二条では
「篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬(うやま)え。三宝とは仏と法と僧なり」と記され、ひとびとを正しく導く仏教が求められたのです。そして第二条の終わりに「其(そ)れ三宝に帰(き)せずんば、何を以てか柾(まが)れるを直(ただ)さん」と締めくくられています。仏教を国のよりどころとして、仏教の教えをもとに心のまがっている人を正しくするのだと示されています。

 また、聖徳太子は親近の三人へのご遺語を残されています。

太子の妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)には
「世間(せけん)虚仮(こけ) 唯仏(ゆいぶつ)是真(ぜしん)」と言うお言葉を残されています。すなわち「世間は虚(むな)しい仮(かり)のもの、唯だ仏のみ是れ真(まこと)なり」と説かれ、世の中は仮の存在であり、仏の教えが真実である。まさに仏への帰依が説かれています。

次いで、太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)には
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」という二句の言葉を残されています。これは「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」の二句で、その後に「自浄(じじょう)其意(ごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」の二句が続きます。「諸(もろもろ)の悪を作(な)すこと莫(なか)れ、諸の善は奉(ほう)じ行(おこ)なえ」というこのお言葉は聖徳太子自身が生涯にわたって戒とされておられたお言葉だと言われており、自らの心を清(きよ)めることこそ、それが諸仏の教えであると言われています。

そして田村皇子(のちの舒明(じょめい)天皇)が聖徳太子の病床を見舞われたときのお言葉で
「財物(ざいもつ)は亡(ほろ)び易(やす)く永(なが)く保(たも)つ可(べ)からず、但(た)だ三宝の法のみ絶えずして以(もっ)て永く伝う可し」と述べられています。太子は仏法の教えを永く伝えることを願っておられます。」

(「聖徳太子のこころと信仰」法隆寺・古谷正覚管長 『たずねる・わかる聖徳太子』淡交社より一部引用)

親鸞聖人は、聖徳太子さまを「和国(わこく)の教主(きょうしゅ) 聖徳(しょうとく)王(おう)」(日本にお出ましになられたお釈迦さま、聖徳太子さま)と讃え、ご自身の人生の節目に聖徳太子さまの「夢のお告げ」、示現を頂戴されています。そのことにつきましては来月(四月号)にご紹介いたします。



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