2021年(令和3年) 6月 法話

フェノロサの見た世界 

1888年(明治21年)6月5日アーネスト・F・フェノロサ氏が「奈良の諸君に告ぐ」と題した講演を淨教寺本堂にて行った。それから133年が経った。
フェノロサは、ハーバード大学を首席で卒業し、ボストン美術館で美術を学び、25歳の若さで来日した。東京大学で政治学、哲学、経済学を教え、学生に通訳となる岡倉天心がいた。
フェノロサは、ギリシャ・ローマの芸術作品が美の最高頂点であると認識していた。それに匹敵する仏像、仏画等が、奈良に点在していた。しかしそれらは西欧化の嵐の中、瀕死の状態に陥っていた。すなわち、日本の古びたものは価値のないもので、西洋のものこそがこれからの価値あるものであるといった風潮である。そんな中、冒頭の講演が開催されたのである。
その中で、「奈良は中央アジアの博物館であり、奈良の宝物は、奈良だけのものでなく、日本の、いや、世界の宝物である。これらのものを保存護持することが奈良の諸君の名誉である」と力強く語りかけたのである。
フェノロサは、その講演の数年前に、滋賀県、三井寺・法明院にて受戒をして仏教徒となり、法名を「諦信」とたまわっている。彼は真・善・美の頂点を仏教の真理の中に見出していたのである。

西欧の美、仏教の美に流れる根幹を稲垣瑞剱先生は法話「倫理・哲学・宗教」の中で語っておられる。以下引用。

英国の美学の評論家、ラスキン((1819~1900))と言う人が、Modern(モォーダン) Painters(ペインタース) 『近代画家論』と言って、師匠のターナー((1775~1851))を弁護して書いた論文の中で「美しいものは真や(まこと)、真( まこと)は美しい。善なるものは美で、美なるものは真(しん)や、真(しん)なるものは美である。」言うて、この三角形の真・善・美を書いております。「美しいものを描く」と言うて、「何を描こうか」言うて下手な画家は「景色のいいものを描こう」とやっておるけど、この論文では、「嘘がなかったら綺麗なんや、それが画材になるんや、道に落ちとる石ころでも綺麗なもんや。あれはもう真や(まこと)、石ころ一つが真で(まこと)、善で、美であるんや。」と、述べています。フランスの ミレー ((1814~1875))と言う画家が、「ほんまのところをありのままの姿を描いたらそれが画(え)になる」言うて、貧民窟(ひんみんくつ)を描いてみたり、百姓の稲刈り姿を描いたりしてる。やっぱりええわ。とにかく嘘がいかん、虚偽がいかん。

「美しい」と言うたら心がスゥーッと静まって、悪い心を起こさんのが美しいんや。如来様(さん)に参って座禅をする、そうすると心が美しぅなる、美しくなると顔が美しゅうなるんや。これを儂(わし)は「精神的美顔術」と言うとんじゃが、心が綺麗かったら顔が綺麗になるんや。覚えときなはれ。

自然の感情が美やな。自然の感情というものはどんな時にも美しいもんや。自然の現象と言うたら、桜の花が咲いとんのも、月が煌(こう)々(こう)と照っとんのも美しいし、自然の現象は悉く美しい。なぜか? と言うと、自然の現象は「無我」や。嘘のないことが美しい、虚偽のないのが美しい。自然の現象は無我なるがゆえに美しい。人間も無我になったら美しいもんじゃ。仏様じゃもんな、無我になったら。

 仏教哲学の根本原理は無我。で、無我は宗教の原理であり、道徳の原理であり、それから哲学の原理であり、宇宙の原理であり、仏様の本質を無我と言う、これを涅槃と言う。
 真・善・美の本が大信心と言う、浄土真宗の信心や。迷信と違う。それから真・善・美の本になるのが無我、般若波羅蜜多の般若や、どちらも大事やな。それから信の世界・無我の世界を切り開くというと、真・善・美が分ってきて、それから音楽や詩や絵画や建築と言うな芸術の世界も分ってくる。

音楽家でも無我です。ベートーヴェン( (1770~1827) )の月光の曲なんかでも無我にならなんだら、あんだけの音楽はでけへんで。

 ミケランジェ((1475~1564))ロ、ラファエロ((1483~1520))なんかも、あれも無我や。

芸術は無我やなかったらあかん。絵見てもこれは無我で描(か)いとるか、無我で描かんかというとこ、字見てもそうや。無我で書いたやつはええねん、無我で書かんやつはいかん。これ絵に描(か)いたらなんぼに売れるやろ云ぅて絵描(か)く、碌(ろく)な絵やあらへん。字でもそうやで。
仏様は無我や。衆生を助けるんでも皆(みな)無我や。俺が助けたったなんと言う我(が)はあらへん。
信心て言うたら、無我や。何が無我か言うと、善(い)いも悪いも考えへんもん、本真も嘘も考えへんねんもん、仰せの通りに「はぁー」と従う、無我や。無我の信心まで行かんといかん。なぁ。仏教の行き方(かた)云うのは、そうや。

 仏教で言う宗教と言うたら迷いを離れて悟りを開いて凡夫が仏に成る、これが宗教やと言う。悟りの境地とはどんなもんですか?無我や。悟りを開くものは何ですか?般若波羅蜜多の無我になる修((学)養(問))や、座((修)禅(行))する。それか仏様の仰せを無我に信ずる、これは信心や。浄土真宗の宗((他)教(力))です。
(一部抜粋)

 無我の境地から生み出された芸術作品、仏像・仏画からあふれ出る慈悲のあたたかい真実(まこと)を感じ、共鳴していったのがフェノロサの卓越した審美眼だったのです。



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