2021年(令和3年) 7月 法話

みんなちがって みんないい 

青色(しょうしき)青光(しょうこう) 黄色(おうしき)黄光(おうこう) 赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう) 白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)

『仏説阿弥陀経』の中のお言葉です。お浄土の蓮の華は、青の蓮は青い光を、黄の蓮は黄色い光を、赤の蓮は赤い光を、白い蓮は白い光を放って輝いています。このお言葉の中には、それぞれのいのちを精一杯輝かせている。
すなわち①他の色をうらやましく感じることもなく、
②また、自分の色に染めてやろうという思いもなく、
③誰かに美しく輝いていることをほめてもらおうという虚栄の心もありません。

境内の草木も動植物もそうです。ソテツの新芽、夏ツバキ(沙羅)の純白の花、アジサイたちの花盛り、アカンサス、ヒペリカム、また蝶やトンボなど、たくさんのいのちがそれぞれに輝きを放って躍動しています。まさに『阿弥陀経』の「青色(しょうしき)青光(しょうこう) 黄色(おうしき)黄光(おうこう) 赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう) 白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)」の世界です。

お経(『大阿弥陀経』)の中には、「諸天(しょてん)・人民(にんみん)・蜎飛(けんぴ)・蠕動(ねんどう)の類(たぐい)、わが名字(みょうじ)を聞きて慈心(じしん)せざるはなけん。」(意味:天人や人々をはじめとして、さまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号(南無阿弥陀仏)を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう)と、あります。

「蜎飛(けんぴ)・蠕動(ねんどう)の類(たぐい)」とは、蜎飛(けんぴ)とは飛びまわる小虫、蠕動(ねんどう)とはうごめくうじ虫のことです。この言葉には人間だけが救われれば、それでよしと考える傲慢(ごうまん)さはありません。むしろ人間だけでなく、人間が苦手な、うじ虫やミミズやボウフラや蛾(が)までも、どんなものであろうとも阿弥陀如来の救いの対象であるということなのです。

金子みすゞさんの詩が思い出されます。

「わたしと小鳥とすずと」
私が両手をひろげても  お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに  地面(じべた)を速くは走れない
私がからだをゆすっても  きれいな音は出ないけど
あの鳴る鈴は私のやうに  たくさんな唄(うた)は知らないよ
鈴と、小鳥と、それから私  みんなちがって、みんないい


と、あります。金子みすゞさんのあらゆるいのちへのあたたかい思いやりの心に感動します。

今年は、東京オリンピック、パラリンピックでたくさんの選手たちがやってきます。特にパラリンピックでは、私たちの想像を超えるような障害を克服して参加している選手もいます。今一度、選手たちから、また私たちを取り巻く自然の中の動植物から生きる力を、生きていることの尊さを学び取りたいものです。

もう一つ申せば、聖徳太子の『十七条憲法』の第十条のお言葉に、

十(じゅう)に曰(いわ)く、忿(こころのいかり)を絶(た)ち瞋(おもえりのいかり)を棄(す)て、人(ひと)の違(たが)うを怒(いか)らざれ。人(ひと)皆(みな)心(こころ)あり、心(こころ)各(おのおの)執(と)るところあり。彼是(かれぜ)とすれば則(すなわ)ち我(われ)は非(ひ)とし、我(われ)是(ぜ)とすれば則(すなわ)ち彼(かれ)は非(ひ)とす。我(われ)必(かなら)ずしも聖(ひじり)に非(あら)ず、彼(かれ)必(かなら)ずしも愚(おろか)に非(あら)ず、共(とも)に是(こ)れ凡夫(ぼんぶ(ただびと))のみ。

(意味:心に憤りを抱いたり、それを顔に表したりすることをやめ、人が自分と違ったことをしても、それを怒らないようにせよ。人の心はさまざまでお互いに相譲れないものをもっている。相手がよいと思うことを自分はよくないと思ったり、自分がよいことだと思っても相手がそれをよくないと思うことがあるものだ。自分が聖人で相手が愚人だと決まっているわけではない。ともに凡夫なのだ。)とあります。

皆それぞれに心があって、凡夫である。そのことを踏まえて、みんなの多様性を受容しながら日々を過ごすことが大切であると教えて下さいます。また、このお言葉から親鸞聖人は、大きな影響を受けられ、とても大事に聖徳太子を尊敬されました。

淨教寺境内の様子を「ユーチューブ」で配信しています。
「ユーチューブ 奈良 三条浄教寺 水無月の庭」で検索してみて下さい。



  ミヤマヤエムラサキ


   ヒペリカムの花


  ヒペリカムの実


   夏ツバキ


  オオシオカラトンボ

         青色青光


  マツヨイグサ

     黄色黄光


   ジュズサンゴ

         赤色赤光


  半夏生(ハンゲショウ)

     白色白光