2021年(令和3年) 10月 法話

それがし閉眼(へいがん)せば 
 
親鸞聖人は承安3年(1173)4月1日(新暦5月21日)にお生まれになり、弘長2年(1262)11月28日(新暦1263年1月16日)に享年90歳でご往生なされました。

時代は平安末期から鎌倉時代。貴族から武士の世へと、戦乱が繰り返され、自然災害が幾(いく)たびも人々を襲い、餓死者も続出し、惨憺(さんたん)たる日常でした。
そんな中、「生死(しょうじ)出(い)ずべき道(みち)」すなわち、真実の救いの道を求めて9歳で出家得度され、29歳でお師匠・法然聖人から、阿弥陀如来の救いの道=本願真実の大道を授かりました。35歳でご流罪を機に法然様とお別れになり、越後、関東の人々に「阿弥陀如来のお救いのおはたらき」を説き示して行かれました。60歳ころ京都に帰られてからは著作に専念され特に80歳を超えられてから多くのお書物を遺(のこ)されました。

親鸞聖人のお言葉として、本願寺第三世・覚如上人が『改邪抄(がいじゃしょう)』に、
「それがし 親鸞(しんらん) 閉眼(へいがん)せば、賀茂河(かもがわ)にいれて魚(うお)にあたふべし」と云々。
これすなはちこの肉身(にくしん)を軽んじて仏法(ぶっぽう)の信心(しんじん)を本(ほん)とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。
と、書き記され親鸞聖人のご遺言と言われているものです。
「今生での私の命が終えたなら、私の体は賀茂川の魚に与えてほしい」という意味です。覚如上人はその心を、肉体にとらわれるのではなく、あくまでも大事なことは「信心(しんじん)獲得(ぎゃくとく)」であると受け止めておられます。

 お釈迦さまのお言葉の中には、
「人は生まれによって尊いのではない。行いによって尊くもなり卑しくもなるのである。」とあります。
 せっかく生まれた人間として、どのような道を歩いていくのか。それが大事なことであるとお示しです。



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稲垣瑞剱先生も
「著書は私の墓である。良書が世に出ることは一城を築いたにも勝る目出度いことである。」と申され、寸暇を惜しんで執筆を続けられ95年(享年97歳)のご生涯を全うぜられたのです。

また、このような言葉も残されています。
「如来さまの御加護が無ければ書物は書けるものではない。両親と師匠を念じ念じ、書かなければペンは走らぬ。筆を執ったのは自分であるが、書かせて下さったのは如来様とお師匠様である(瑞剱)」

このことは「み教えを確かに伝え遺す事」の重要性を親鸞聖人もお釈迦様も稲垣先生も仰っておられるのです。

すなわち、親鸞聖人が高く尊崇された聖徳太子様が「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧これなり」と『十七条憲法』に示された通りです。
「仏(ぶつ)」とは、仏様(覚者)によって悟られた真理。「法(ほう)」とは、その仏様が説き示された救いの教え。「僧(そう)」とは、その教え(法)を学ぶ仏弟子の集団(僧伽(さんが))。これこそが私たちにとっての「最高の宝物」であると断言してくださっています。

生まれがたき人間に生まれ、出遇いがたき仏法に出遇い、聞きがたき教えを聞かせていただく環境の整っていることを慶ばせていただきたいものです。

そして、命のある限りお聴聞を続け、阿弥陀如来の真実のおはたらき、「必ずお浄土に生まれさせる。お願いだから私にあなたを助けさせておくれ。」との、阿弥陀さまのやるせない真実の叫び。「南無阿弥陀仏」との「喚(よ)び声(ごえ)」を聞かせていただき、「もったいないことです」「ありがたいことです」と受け止めさせていただくことこそが真実のおはたらきに、気づき、出遇わせていただけたことになるのです。このことを「信心獲得」とも「ご信心を賜(たまわ)った」とも言うのです。



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