2022年(令和4年) 2月 法話

凡夫 (ぼんぶ・ただびと)  

今年は、聖徳太子が亡くなられて1400年の節目の年に当たります。西暦622年(推古天皇30年)2月22日(旧暦)4月8日(新暦)に亡くなられました。
改めて、親鸞聖人が「和国の教主 聖徳王」と讃えられた聖徳太子のご文を観てまいりましょう。
ここに示します『十七条憲法』第十条のご文は、お互いに相手をよく見つめ、理解するように努力して、許し合って生きてゆくことの大切さをもとめられています。親鸞聖人の後に示します『一念多念証文』の「凡夫」の解釈と合わせて拝読させていただくとお釈迦様の教えに出遇うことによって、自らのあり方を見つめ、深い罪業に気づかされていくことの大切さ、そのものをこそ救わずにはおかぬとの阿弥陀さまの大いなる慈悲に抱かれておればこそ、語ることの出来る尊いお言葉と受けとめさせていただくことが出来ます。



         紅 梅


           蝋 梅


『十七条憲法』 第十条
十に曰く、
忿(こころのいかり)を絶(た)ち瞋(おもえりのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)ふを怒(いか)らざれ。
人皆な心(こころ)有り、心(こころ)に各(おのおの)執(と)るところ有り。
彼(か)れ是(ぜ)なれば則ち我(われ)れ非(ひ)なり、我れ是(ぜ)なれば則ち彼れ非(ひ)なり。
我(わ)れ必ずしも聖(ひじり)に非ず、彼(か)れ必ずしも愚(おろか)に非ず、共に是(こ)れ凡夫(ただびと)のみ。
是非(ぜひ)の理(ことわり)、詎(なん)ぞ能(よ)く定(さだ)む可(べ)けんや。
相(あい)共(とも)に賢愚(けんぐ)なること、鐶(みみがね)の端(はし)無(な)きが如し。
是を以て彼(か)れ瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえっ)て我が失(あやまち)を恐(おそ)れよ。
我れ独(ひと)り得たりと雖(いえど)も、衆(もろもろ)に従(したが)ひて同じく挙(ここな)へ。

現代語訳
第十条
忿怒(こころのいかり)を絶ち、瞋恚(おもてのいかり)を棄て、人と考えが違うことを怒るな。人には皆心があり、各々のこだわり(執着(しゅうじゃく))があるのだから、相手はよくても自分はよくないこともあれば、自分はよくても相手はよくないこともある。自分が必ず優(すぐ)れている(聖(ひじり))わけでも、相手が必ず愚(おろ)かなわけでもない。どちらも凡夫(ただびと)(凡人(ぼんじん))なのであり、是非を決定できる優越性など無い。共に賢さと愚かさを併せ持っている(一体的である)のは、鐶(みみがね)(環(わ))に端が無いのと同様である。このように、相手が怒ったとしても、かえって自分に過失が無かったか振り返り、また自分一人の考えがあったとしても人々の意見を聞き入れて協調して振る舞うべきである。

凡夫(ぼんぶ) 『一念多念証文』
「凡夫(ぼんぶ)といふは、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二(すいかに)河(が)のたとへにあらはれたり。」

と、親鸞聖人は阿弥陀様の慈悲の光に照らされたご自身を煩悩具足の凡夫と見つめておられます。
暗い部屋の中では何も見えませんが、そこに光が差し込むと空気中の塵や埃までがよく分かります。阿弥陀さまの光にあうことによって、自分自身の愚かさが気付かされるのです。私自身の心のお粗末さが知らされるのです。

 蓮如上人は
「人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおもわざるものなり。わが身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふとおもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをばよく信用すべし。わがわろきことはおぼえざる(気づかない)ものなるよし仰せられ候ふ。」(『御一代記聞書』195)と述べられました。
合わせて、よくよくかみしめて、味読したいものです。



       冬空に輝く本堂


         寒風の中も元気なソテツ