2022年(令和4年) 12月 法話


         咲き始めの 菊 鹿
            



                満 開 の 菊 鹿

親鸞聖人の三哉(さんさい) 悲(かな)しきかな 

今月は、親鸞聖人の「悲しきかな」というお言葉について味わってみたいと思います。
親鸞聖人の主著『教行信証』の信巻と化身土巻の文の中に

悲(かな)しきかな愚禿(ぐとく)鸞(らん)、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。 『教行信証』信巻(末)

現代語訳:悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、正定聚に入っていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥しく、嘆かわしいことである。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。  『教行信証』化身土巻(本)

現代語訳:悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。と示されてあります。

私たちが「悲しみ」を感じる時は、①愛するものと分かれる悲しみ(愛別離苦)、②出来ていたものが出来なくなる悲しみ(老い)、③不治の病の宣告を受ける悲しみ(病)等、四苦八苦と示される出来事に出遭った時が多いと思います。

しかし、親鸞聖人における「悲しみ」は、上記の言葉に示されるように四苦八苦の悲しみを超えた、真実の悟りに近づこうともせず、浄土に生まれるべき身に定まることを喜びとしない事への「悲しみ」です。

このことは、『歎異抄』第9条に、お弟子の唯円さまの述懐として示されます。
33歳くらいの唯円さまが、83歳くらいの親鸞聖人に心の内の悩みを打ち明けられます。「念仏を称えていても、喜びの心も湧き起こってこないし、早くお浄土に生まれたいという気持ちも起こりません。」と。

それに対して親鸞聖人は、「あなたもそうでしたか。私もそうだよ!」と、驚きの返答をされます。そして、「喜ぶべき心が抑えられて喜べないのは、煩悩のせいである。そのような煩悩を抱えた人のために阿弥陀様の本願があるのです。」と、続けられます。また「遠い昔から今まで生死を繰り返してきたこの苦悩に満ちた世界が捨てがたいのは当然です。そして未だ生まれたことのないお浄土が恋しくないのは、それはまさに煩悩が盛んなるが故です。」と、優しくお答えになられます。

「悲しきかな」とは、親鸞聖人の赤裸々な告白であると同時に、このようなものをこそ、「必ず救わずにはおかぬ」との、阿弥陀如来のやるせない真実のお慈悲に出遇われた求道のたまものであり、阿弥陀様の本願に出遇われたよろこび、確信に裏付けられた慚愧の念いからの「悲しきかな」であると。受け止めさせていただくことができます。




            小菊(ドーム)にカスミカメムシ


      境内のもみじ (本堂横 イロハモミジ)