法のたより 2004年 6月号



仏教の宇宙観・・・発想の転換・・・5月18日から20日 永代経法要 挨拶より 住職 島田 和麿

人間は社会の中だけに生きておりますと、いろいろとざわざわした事件ばかりの中にいて・・・。一寸先は闇とも言われます。人生何が起こってくるかわかりません。そうこうしているうちにあっという間に人生が終わってしまうということになりかねません。そういう中になるべくお寺に足を運んでいただき、娑婆のことは少し忘れて、もっと大事な本当の世界に出て、静かな人生の意味、喜びを感じさせていただこうというのが仏教の法要でございます。
「新制 仏説無量寿経」のおつとめの最後に親鸞聖人のおうた、和讃が引かれております。「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(浄土和讃)
地球だけのちっぽけな世界だけを見るのではなくて、「三千大千世界」と申しまします。この銀河系を中心とした大きな世界、これだけでも大宇宙でございますが、それが1000集まった世界を「小千世界」といいます。これだけでも想像を絶しますが、その小千世界が1000集まった世界を「中千世界」といいます。また、その中千世界が1000集まった世界を「大千世界」と申します。小、中、大・三千大千世界とはかり知れない宇宙観が仏教にあるわけです。仏教により日本の精神状況、文化というものも雄大に優秀になってきたのではないかと思います。
その大宇宙が炎となって燃え上がってもいてもその中を突き進んで聞法せよということが「仏説無量寿経」の中に書かれております。すざまじい、激しい、大きな世界観、人生観というものをご和讃一つでも味わうことが出来ます。
永代経の「経」という字は「つね」と読みます。「つねに考えなさい」という意味も含んでいるでしょう。また、「けい」と読みますと、東経何度などと使いますように、「たていと」の意味を表します。はかり知れない過去からの長い長い時間のいのち。だいたい地球が出来ましてから、46億年といわれています。はてしなく、いにしえの大変遠い時間を、過去から現在そして未来をじっと静かに考えて見ましょうということです。その中で、人間に生まれさせていただいたのです。何でも当たり前と思っておりますけれども大変なんです。さすれば、ただ一度の人間の生を受けた今の私の生き方、また価値観というものをどこにもっていったらよいかということ。この世の小さな、くちゃくちゃしたことばかりでこの人生を終わって、むなしく果ててしまうということではもったいないではないですか。
親鸞聖人は、この阿弥陀様は「久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏」といわれて、はるかなるいにしえにお悟りを開かれて、真実に正覚を成ぜられた、私たち仏教徒の中心の本師法王であるとおっしゃいます。このあいだ仏様に成られたのでなくて、久遠の昔、はるかなる昔にこの阿弥陀様が智慧と慈悲を円満せられて、ひかりといのち極みなき正覚を成ぜられました。ここが仏教の一番根源的なところでございます。この阿弥陀様がお出ましになられまして、私たち生きとし生けるものをご覧になられまして、衆生かわいいと苦しめる者をどうして救おうかと必死に無限の時間お考えになって、お釈迦様をこの世にお遣(つか)わしになられました。そこのところを親鸞聖人はご和讃に「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあわれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶(がや)城には応現する」(浄土和讃)と示されてます。
私たちのような、罪深い、愚かな、苦しみ悩めるものをご心配いただきまして、阿弥陀様がお釈迦様をこの世にお遣わし下さった。そのことを親鸞聖人はお喜びになった。ただ事ではありません。
釈尊出世より2600年が経っております。この長い「たていと」、私たちのいのちの流れをこの法要で考えさせていただくのです。そしてまた、釈尊滅後も人類の多くの方々、私たちの先祖が必死になってこの教えを護っていただいたおかげで今日「心配せんでもいいよ、必ずあなたを助けるから、護っておるよ。」と、私を目がけて慈悲のひかりを投げかけて、まっしぐらに私を抱擁して下さる如来様がおられることを、今聞かせていただいているのは、果てしない阿弥陀様のお力であり、また現実には私たちの先祖が仏教を護ってくださったおかげであるということを、この法要を通して静かに考え、意味を喜ばせていただきたいものです。そして、仏様の教えを聞かせていただくために人間に生まれさせていただいたのだということを発見させてもらったら、どんなに苦しいことでも越えていくことが出来るのです。そういう力を与えられますし、現に与えられているのでございます