2004年 8月号 法のたより


み親の慈悲
   7月20日(火) 午後2時 定例法座 住職 挨拶より

今日は、公立小、中学校の終業式で家の孫たち、小学校4年生の沙樹子と小学校2年生の和香子も成績表をもらってきまして明日から夏休みに入ります。その孫たち二人が、8月のお盆に若院主の里、新潟県越路町に二人だけで帰るというのです。この二人はどちらかというと甘えたな方で、どこへ行くにも「お母さんと一緒に」というところがあるのですが、それが飛行機に二人だけで乗り込んで行くというのです。昨年もそうしたのですが、じっと考えますと、怖くて、そんなに乗る度胸など無いはずなのに行くんだな。と、思ったのですが、よくよく考えてみますとわかりました。新潟のおじいちゃんやおばあちゃん、おばさまが「来てね」と言って待っていてくれるのです。「空港まで迎えに行ってるからね」と、おばさまが待っていてくれるのです。皆さん、念力がかかっているのです。かわいくてたまらない、早く来てね。待ってるよ。会いたい。ということで目に見えませんけれどその思いがこちらに届いているのです。ですからあの小さい二人は飛行機に乗って行くというのです。
私それを聞いてじっと考えました。「皆さん、目に見えませんけど、如来様の念力が我々にかかっているのです。」「心配せずともよい。今もあなたを抱きかかえているよ。」と。目に見えるものだけが確かだと思ったらこれは間違いですね。科学的に考えたら純粋なガソリンとジェットエンジンを動かす動力と風圧と、もろもろの要素が組み合わされて飛行機が飛んでそれに乗っていくというのも一つの考え方で物理的な科学的な分析の仕方です。
しかし、力のない、小さい、甘ったれの子どもが行くというのは、それまでにおおきな親の念力がかかっているのです。私は涙がこぼれました。
そのことを通して私は仏様のことを思いました。私たちがこうして聞かせていただくのも、結局は親鸞聖人のお言葉に触れさせていただくということです。そのお言葉には如来様のパワーが、エネルギーがみなぎっているのです。「願力無窮(がんりきむぐう)にましませば」「仏智無辺(ぶっちむへん)」と、仏様のはかることのできない、あたたかい智慧と慈悲でつつまれていることを親鸞聖人は肌で感じとっておられ、実証して下さっているのです。
私たちには見えませんけれども、まず、ご本典(教行信証)の最初には「難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)」と「無碍の光明」というお言葉が出されて、「仏様がおいで下さいます。心配いりません。今も護って下さっています。いや、ずっと以前から仏様に出遇わそうと思って、如来様は必死になって活動して下さっておられます。」と、お示し下さいます。そのことを聞かせていただきましたら、皆さん、人生の闇は晴れるのです。問題はその一点、親鸞聖人のお言葉にパワーがみなぎっているのです。孫たちが飛行機に乗って行くというその背後にある親の念力が働いているというものが大きいのです。目に見えないものの方が私たちの人生を動かしていくのです。大きな幸せは、ものではないです。心なのです。そのことを正しく観察して学んでいく。そして、如来様の本願力を頂戴する。こういうことが大事であり、一番幸せな道であるということを感じたことでございます。