法のたより〔256〕
佐々井(ささい) 秀嶺(しゅうれい) 上人
1935年 岡山県生まれ。25歳の時、高尾山薬王院にて得度。
1965年、交換留学生としてタイに渡り、その後インドに入る。1967年、龍樹菩薩の夢告によりナグプールに赴く。ナグプールは1956年、B・R・アンベードカル博士が数十万人の不可触民と共に、仏教に改宗した場所であった。以来、現地の仏教徒と寝食を共にし、アンベードカル博士の仏教復興運動を継承。1988年、百万人の市民の署名によりインド国籍を取得。インド名Arya(アーリア) Nagarjuna(ナーガルジュナ) Shurei(シューレイ) Sasai(ササイ)。毎年10月に行われる、ナグプールの大改宗式で導師を勤め、およそ1億人とも言われるインド仏教徒の最高指導者となる。ブッダガヤ大菩提寺の管理権を仏教徒の手に返す奪還運動を主導。
2003年より3年間、インド政府少数者委員会(マイノリティ・コミッション)の仏教代表に就任。仏教徒の社会的地位向上に尽力する。1990年代より、マンセル遺跡、シルプール遺跡に関わり、仏教遺跡の発掘、保存を展開する。2009年、44年ぶりに日本に帰国。翌年、ナグプール郊外に龍樹菩薩大寺を建立し、大乗仏教の祖師龍樹菩薩を顕彰する一大拠点を設ける。(「南天会」佐々井上人支援の会HPより)
*インドナグプール 大改宗式 ヒンズー教から仏教へ
「我は龍樹なり 汝速やかに南天龍宮城へ行け 南天龍宮城は我が法城 我が法城は汝が法城なり 南天鉄塔もまたそこに在らん」佐々井上人32歳。インドに入って一年目のこの龍樹菩薩の夢告は上人の人生を180度変えていきました。インドの土に還らなければならないという必然的な宿命。信念と覚悟が定まって行ったのです。
しかし、ヒンズー教から仏教に改宗した人々〔ダリット(不可触民)〕たちの現状は、改宗しても極貧にあえぐ状態でした。上人は町を歩き、願い事をかなえて回りました。井戸掘り、大工仕事の毎日。嘘をつかない、有限実行の上人の姿に人々は信頼を深めていきました。
「弱いもの、虐げられたもの、三千年間はずかしめられて生きてきたアンタッチャブル(触れてはならぬ者・非人間)と言われて、何の権利もなく、人格も認められない、そういう人々に仏の教えとは、正義とは、奮発心とはというものを伝え、身体を張って誠心・誠意を持って、こころを捧げて行くのが本当の仏教の菩薩道だということがわかってきたのです。」と語られます。そして「全インドを仏教国にせしめねばならん!」と、見る夢も、目の前に浮かぶことも、みなインドの貧しい民衆の事ばかりだそうです。
また「ヒンズー教から仏教に改宗して一番大事な事は、生活が安定して向上して自分が成長していくことです。多くの仏教改宗者が立派な人になっています。精神的にも態度の面でも仏教徒になることが大事です。信仰とは信念を持って日々を生きることです。」とも仰います。
生まれついての過酷な差別の構造から、自ら抜け出ようと願うインドの民衆で埋まった改宗広場で毎年何万人もの新しい仏教徒が生まれ、既に仏教徒になった者達とともに、互いに「三帰依文(南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧)」を唱和して信仰を共有していく姿に、仏教は全インドを少しずつ確実に変えて行っている事を目の当たりにすることが出来ます。(今年で68回目)
そして、佐々井上人は日本の現状について、「日本人ほど美しい心を持った人間はいない。しかし現代の日本はその美しいこころをもった人間がだんだん神仏を拝まないとか、利己的な自我的な人間になりつつあります。よくよく考えて、今、宗教家が、今、教育者が反省、自省して行かないと日本の精神的将来は細くなって行き詰まってしまう。」と危惧されています。
アンベードカル博士は言っています。「人間と人間がいかに仲良く、いかに尊重し合い、そしてお互いに認め合って、仲良く博愛に満ちた社会を築こうとして歩むのが仏教である」と。改めて佐々井秀嶺上人は「日本の仏教の世に生きる人々、各仏教会の僧侶の方々は宗派を超えて、人間が生きる道、豊かな心を持って生きる道、微笑みあって生きる道、そういう教育方法を日本の各仏教会が団結して進めるべきだと私は思います。」と、強く語っておられました。