奈良 淨教寺

2024年(令和6年)12月の法話

のりのたより〔264〕

望月(もちづき)の歌 

「この世(よ)をば 我(わ)が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠(か)けたることも 無しと思へば」

藤原道長(みちなが)(966-1028)52歳(寛仁2年1018年)の時の有名な歌です。一条天皇に藤原彰子(しょうし(あきこ))を、三条天皇に藤原妍子(けんし(すけこ))を、後一条天皇に藤原威子(いし(たけこ))を入内させ、天皇の中宮(正妻)として立后させ、太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮(皇后)威子という三后すべてを道長の娘が占めるという「一家三(いっかさん)后(ごう)」を成し遂げ驚嘆されました。威子立后の日に道長が詠んだこの歌は、藤原氏九条流による摂関政治の絶頂を示し道長の傲慢さと自信家を表わす歌と理解されることが多いです。

しかし、近年では「望月の歌」を権勢の象徴としてだけではなく、家族の繁栄や宴席でのよろこび、人間関係への思いを込めたものとの新解釈がされているようです。

①歌の冒頭の「この世をば」は、「この世(現世)」と「この夜(今夜)」の掛詞としてとらえて「今夜のこの場を心ゆくまで楽しんでいる」と解釈することが出来るようです。

②また、「望月」は満月を指すだけではなく、道長の娘たちが天皇三代の皇后となったことを象徴していると解釈できるそうです。

③そして「月」は「盃」の意味を持ちますから宴席で盃が回る様子を月の満ち欠けに喩えていると言う解釈で、宴席での和やかな雰囲気や人々の結束を詠んだと考えられるそうです。そう解釈することで道長像の違った一面が浮かび上がります。

この新解釈をこの度のNHKの大河ドラマ「光る君へ」(第44回放送)では演出していたように感じました。

藤原道長直筆「仏説阿弥陀経」の写経 金峯山寺蔵
親子の菊鹿

その後、藤原道長は健康状態の悪化が目立つようになり(肺病の発作・糖尿病・眼病)、翌年、寛仁3年(1019年)3月出家をし7月からは無量(むりょう)寿院(じゅいん)(法(ほう)成寺(じょうじ))の造営を開始し、心血を注ぎます。

当時の末法思想の広がりの中(1025年が末法に入る年と認識されていた)で、「極楽往生」を願う人々に、仏への結縁を結ぶ機会を与えると共に、自らの権威を知らしめる目的も持っていたようです。

寛仁4年(1020年)3月、法成寺の落慶法要が三后(太皇太后彰子・皇太后妍子、中宮(皇后)威子)の行啓をともなう盛大な儀式であった事が「栄花物語」に伝えられています。道長はこの法成寺で過ごしますが、子ども達に先立たれ、自らも病気がちで安らかとは言いがたい最後で万寿4年(1028年)1月3日、享年62歳で亡くなります。

道長の同時代の平安中期には天台宗の源信(げんしん)和尚(かしょう)らにより死後の阿弥陀如来による救いを説く、浄土教が大きな力を持ってきます。その影響で貴族による寺院造営が頻繁に行われます。そんな中1052年には道長の長男、頼(より)道(みち)が宇治平等院鳳凰堂を造営します。これは当時の貴族らの浄土信仰の代表的遺構です。やがて武家勢力の台頭と併せ、平安末期に法然上人の専修念仏が広まり、民衆全体への広がりを見せ鎌倉新仏教のさきがけとなり、1173年の親鸞聖人の御誕生。1224年の「教行信証」の刊行(浄土真宗の成立の年・立教開宗の年)によるお念仏の教えが「信心正因・称名報恩」へと純化されていきます。

1月9日から16日までの「親鸞聖人御正忌(ごしょうき)報恩講(ほうおんこう)法要(西本願寺で開催)」を迎えるに当たり、親鸞聖人のご生涯を改めて学ぶ年末年始をお過ごしください。

本堂から見た 菊とソテツ
境内の紅葉