法のたより〔270〕
いのちかがやいて
一、人(ひと)には 人(ひと)の 命(いのち)あり
花(はな)には 花(はな)の 命(いのち)あり
うまれて生(い)きて 人(ひと)はみな
恵(めぐみ)を願(ねが)う 共命鳥(ぐみょうちょう)
輝(かがや)きあおう やさしく強(つよ)く
輝(かがや)きあおう いつの日(ひ)も
命(いのち)と花(はな)を いつくしみ
二、人(ひと)には 人(ひと)の 涙(なみだ)あり
川(かわ)には 川(かわ)の 涙(なみだ)あり
犯(おか)した罪(つみ)の 過(あやま)ちを
悲(かな)しく唄(うた)う 共命鳥(ぐみょうちょう)
輝(かがや)きあおう 憎(にく)しみ越(こ)えて
輝(かがや)きあおう 諸共(もろとも)に
涙(なみだ)の歴史(れきし) 映(うつ)す川(かわ)
三、人(ひと)には 人(ひと)の 希(のぞ)みあり
空(そら)には 空(そら)の 希(のぞ)みあり
あしたへ託(たく)す 夢(ゆめ)を追(お)い
羽(は)ばたけ愛(あい)の 共命鳥(ぐみょうちょう)
輝(かがや)きあおう 命(いのち)の限(かぎ)り
輝(かがや)きあおう 手(て)を取(と)って
平和(へいわ)の道(みち)の 同朋(とも)となり
この歌は、昭和49年(1994年)広島の原爆で亡くなられた方々の追悼法要「安芸教区全戦没者追悼法要・原爆50回忌法要」に創作された「共命鳥(ぐみょうちょう)」をテーマに未来への愛と願いの讃歌として作られたものです。
「共命鳥」とは、『仏説阿弥陀経』に登場するお浄土の鳥です。「かの国(くに)にはつねに種々(しゅじゅ)奇妙(きみょう)なる雑色(ざっしき)の鳥(とり)あり。 白鵠(びゃっこう)・孔雀(くじゃく)・鸚鵡(おうむ)・舎利(しゃり)・迦陵頻伽(かりょうびんが)・共命(ぐみょう)の鳥(とり)なり。」と、六種類の鳥が美しい声で阿弥陀如来のみ教えを説法されているのだそうです。
「共命鳥」は、頭が二つ、身体が一つという奇妙な姿をしていますが、そこに尊い教えが込められているのです。
共命鳥は他の鳥と比べても大変美しい羽と声を持っていますが、それぞれの頭がどちらも自分が世界一美しいと譲らず、ついに「片方がいなくなれば自分が世界一になる。」と考え、そして密かに片方の食事に毒を盛り食べさせました。結果として食べた側を殺すことは出来たものの、そもそもの身体は一つであるため食べさせた側にも毒が回り、ついに共命鳥はどちらも命を落とすことになります。このことがあってから、浄土の共命鳥は「他(た)を滅(ほろ)ぼす道(みち)は己(おのれ)を滅(ほろ)ぼす道(みち)、他(た)を生(い)かす道(みち)こそ己(おのれ)の生(い)かされる道(みち)」と鳴き続けているそうです。これは鳥の姿に表された仏さまのみ教えであります。



先日エリザベス女王夫妻来日の時のお話を聴かせていただきました。
それは今から50年前の昭和50年(1975年)5月、日本の代表的な宗教施設を訪問したいという要望があり、10日に京都御所等を見学。そして西本願寺に訪問された時の様子です。御影堂(ごえいどう)の向拝(ごはい)(正面の入り口)で、当時の大谷光照(おおたにこうしょう)御門主様がお出迎えになり、国宝の鴻(こう)の間(ま)や能舞台などを拝観されています。
女王様は阿弥陀堂(あみだどう)に案内され、お堂の前で御門主様に「ここは何をお祈りなさる場所ですか?」と尋ねられました。
御門主は、「人間が祈願するのでなく、阿弥陀如来という仏様が先手をかけて、生きとし生ける全てのもの(十方衆生)を必ずすくうと誓われているその仏さまに礼拝する場所です。」とお答えになりました。それを聞かれた女王様は「私もそのなかに入っていますか?」と尋ねると、「オフコース」と御門主様はお返事されたそうです。すると女王様は、帽子をとり、深々と礼をして敬意を表し、阿弥陀堂を後にされたそうです。
その後、伊勢神宮を訪問されています。当時の「本願寺新報(西本願寺の新聞)」には、伊勢神宮訪問の様子を
「神宮の秘書部長に案内された女王夫妻が、内玉垣南門の敷居際まで進まれたとき、ここからは、天皇・皇后陛下だけしか入れませんので、と丁重に断わられました。ご夫妻は不審に思いながら、ここでは何をお祈りなさるのですかと尋ねられますと、部長は、皇室の繁栄と国家の安全と五穀豊饒です。と説明されると、ご夫妻はさりげなくあたりを見まわしながら正殿に礼拝することもなく引き返されたといいます。」と報じられています。
「仏心とは大慈悲これなり」(仏さまの心とは、共によろこび、共に悲しむという大きな限りの無い心であります。)との、国境や人種、宗教や老少・善悪、動植物の違いを越えてはたらく阿弥陀如来の慈悲の世界を有り難く受け止めさせていただく出来事として聴かせていただきました。
阿弥陀如来の化身としてお浄土の鳥「共命鳥」が「他(た)を滅(ほろ)ぼす道(みち)は己(おのれ)を滅(ほろ)ぼす道(みち)、他(た)を生(い)かす道(みち)こそ己(おのれ)の生(い)かされる道(みち)」と鳴き続けていることの意味を今一度一人ひとりが身に引き寄せて考えていきたいものです。

