法のたより〔275〕
悲(ひ)のないところに阿弥陀(あみだ)は立(た)たず
稲垣瑞剱師の『金剛心』に
月にむら雲、花にはあらし、とかく浮世はままならぬ。無常火宅の人生、到るところ唯だ愁嘆の声のみを聞く、また何の楽しみをか求めん、大廈高楼に坐して、この世の栄華を夢みつつあるものは仏法の楽しみを知らず。人の情けの薄衣、浮世の風の身にしみて「あゝ人生は苦なり」と悟った人のみが仏法の真価を味わい得るのである。
と、あります。
何、不自由なく、順調に人生の歩みを進めている方には、なかなか仏法(仏さまのみ教え・阿弥陀様のお慈悲)の尊さは分かりにくいものかもしれません。
「悲のないところに阿弥陀は立たず」、やるせない悲しみに打ちひしがれ、途方にくれているその者のそばに必ず阿弥陀様はお立ちになってくださっています。
淨教寺の秋の旅で、「山陰の妙好人めぐり」をさせていただきました。
鳥取、因幡の源(げん)左(ざ)さん(天保3年1842年~昭和5年1930年)。
島根、小浜の才(さ)市(いち)さん(嘉永3年1850年~昭和7年1932年)。
有福の善太郎(ぜんたろう)さん(天明2年1782年~安政3年1856年)。
因幡の源左さんは、18歳で父の急死。そのときの遺言が「おらが死んで淋しけりゃ、親(おや)さま(阿弥陀さま)を探してすがれ」の一言だったそうです。それから寺参り、聴聞が始まります。
親さま(阿弥陀さま)がなかなか分からず悶々として月日が経ち、30歳を過ぎた夏の早朝、山へ草刈に牛と一緒に行き、草束を牛の背に背負わせる時に「ふいっと分からせてもらった」そうです。
自分の刈った大きな草束は本来自分で背負って帰らなければなりませんが、我が力ではとても背負えません。しかし牛がその全てを待ち受けて背負ってくれることに気付いた途端、はたと思いあたったそうです。それは草束は自分の業であり、牛はその私の業を引き受けてくださる阿弥陀如来のお姿であると。牛が草束を背負った途端に、すとんと楽になったように心もすとんと楽になったそうです。
疑いの闇が晴れて、長いトンネルを抜けたような胸中だったことでしょう。永遠の智慧と慈悲の親(阿弥陀様)に出遇い励まされ、み教えに相談しながら人生を歩む念仏者、因幡の源左さんの新たな生涯の始まりでした。
結婚して三男二女に恵まれますが、長男は生まれて間もなく、次女は38歳で亡くなりました。源左さん80歳を過ぎて長女58歳、次男49歳、三男47歳と三年間に三人の子供に先立たれます。また二度の火災で家財を失い、詐欺にかかり田畑を手放すという憂き目にも遭いますが、どんなことも
「ようこそ ようこそ なんまんだぶ なんまんだぶ」と、お念仏に包み、こぼれるように、ほれぼれとお念仏を申す日々を過ごされ、88年の生涯を全うじられたそうです。