奈良 淨教寺

2026年(令和8年)1月の法話

のりのたより〔277〕

悲(ひ)のないところに阿弥陀(あみだ)は立(た)たず(2) 
迎 春
妙好人・小浜(こはま)の才(さ)市(いち)さん(浅原(あさはら)才(さ)市(いち))
才市さんは山陰、島根の温泉津(ゆのつ)町に嘉永3年(1850年)に生まれ83年の生涯を過ごします。
11歳の時に親戚の船大工の弟子として引き取られ養育されますが、ご両親の離婚が関係しているようです。母親は再婚して温泉津の町の近所に住んでいましたから町の中で出会うこともあったようです。また、父親は定職が無く、お寺の役僧の手伝いで生計を立てていたようで、子供心に複雑な思いを抱いた少年時代だったようです。
晩年の才市さんの「口あい」(詩)に
わしわ(私は) せ(世)かい(界)のひと(人)の ほをとをにん(放蕩人)であります
ゆうもいわんもなく を(親)やがし(死)むればよいと をもいました
なしてわしがおやわ しなんであろうかと をもいました
このあく(悪)ごを(業) だい(大)ざいにん(罪人)が これまで こんにちまで
だいち(大地)が さけん(裂ける)こに(ことなく)おりましたこと
このように「親が死ねばよいのに、何で死なないのか。このような恐ろしいことを思う毎日を過ごして、よく地獄に落ちずに今日まで過ごせたことであった。」と、慚愧・反省の言葉を述べています。
20歳頃から浄土真宗の教えを聴聞し始めます。45歳の時、父が82歳で往生し「親の遺言 南無阿弥陀仏」と振り返っているように、父の死がきっかけとなって激しい求道が続けられました。
「いくら聞いても、わからん。わからん。」と悩む日々で、いくらお寺にお参りしてお聴聞しても「南無阿弥陀仏」が分からないので、家のお仏壇に釘を打ってお参りできないようにしたこともあったそうです。
60歳を過ぎた頃から阿弥陀如来のお慈悲の働きが自分を包んでくださっている感動が「南無阿弥陀仏」のお念仏とともに「口あい」(詩)となってあふれ出るようになります。それをカンナ屑や、下駄の切れ端に書きとめ、そして繰り返し繰り返し読み返して「お念仏」を喜んでいかれました。「口あい」を清書したノートは70冊にもなり、うたわれた詩は1万首にも及んだと言われています。
 かぜをひけば せきがでる  才市が 御ほうぎ(法義)の かぜをひいた
 念仏のせきが でる でる
才市さん69歳ころの「口あい」ですが、この当時、大正7年から8年にかけてスペイン風邪が大流行して多くの方が感染して亡くなられた時期でした。この翌年、才市さんは「角の生えた肖像画」を描いてもらっています。どんなに聴聞していても、縁が整えば何をするか分からない、鬼の性分を持ったこの才市でございます。それが寺参りをさせていただいてます。と、お念仏に照らし出されたお姿です。
わしがちち(父)を(親)や 八十四さい を(往)上(生)しました を(お)上(浄)ど(土)さまに
わしがはは(母)を(親)や 八十三で を(往)上(生)しました を(お)上(浄)ど(土)さまに
わしもゆ(往)きます やがてのほどに を(親)やこ(子)三にんもろともに
しゅ(衆)上さいど(生済度)の み(身)とわなる  
ごをん(恩)うれしや なむあみだぶつ
往生の素懐を遂げたならば、必ずこの娑婆世界に還って残して来た者たちをすくい取る「衆生済度・還相回向」のはたらきに出させてもらうご恩をよろこんでおられます。
 わしほど しや(幸)わせ(福)なものわない  にん(人)げん(間)に うまれさせてもろて
 またごく(極)らく(楽)に うまれさせてもろて  なむあみだぶつ なむあみだぶつ
人間に生まれさせていただいたことへのよろこび、そして仏法、中でも浄土真宗の阿弥陀如来の本願力に出会わせていただけたことへの感謝、感動を素直に表現された詩も残されています。新年を向かえ心新たにお聴聞の日々を過ごさせて頂きましょう。

才市さん「角の生えた肖像」
浅原才市さん
才市さん「口あい」をかいた下駄の切れ端
才市さんの仕事場
釘を打たれたお仏壇