奈良 淨教寺

2026年(令和8年)2月の法話

のりのたより〔278〕

悲(ひ)のないところに阿弥陀(あみだ)は立(た)たず(3) 
 きよらかな白い蓮華のように、厚い信仰をもち、念仏に生きる人々を妙好人(みょうこうにん)と言います。特別な人ではなく、ごく普通の人たちです。お念仏に生かされている感動やよろこびを詩や歌にしたものが多く残されています。
有福(ありふく)の善太郎(ぜんたろう)さん 

  天明2年(1782)~安政3年(1856) 島根県浜田市下有福生まれ
拝んで助けてもらうじゃない。拝まれて下さる 
如来さまに助けられて 参ること。
こちらから思うて助けてもらうじゃない。
向こうから思われて思いとらるる この善太郎
「この善太郎」と書いておられます。「心配するな。必ず救う。」との喚(よ)び声。聴聞したみ教えを、私一人のこととして受け止めていかれたのです。親鸞聖人は「弥陀五劫思(ごこうし)惟(ゆい)の願をよくよく案ずれば親鸞一人がためなり」とお弟子に話されていますが、まさに善太郎さんはその世界を生きておられたのです。如来さまの心を、我が身に受けて行かれた善太郎さんのよろこびが表現されています。
 妙好人と呼ばれるようになる善太郎さんですが、若い時は「毛虫の悪太郎」と村の人々から呼ばれるほど荒れた生活を送っていたようです。しかし、4人の子供を次々と幼くして亡くしたことが機縁となり、40歳を過ぎた頃から、手(て)次寺(つぎでら)である千田の浄光寺や、自宅近くの光現寺のご法座に参るようになったと言い伝えられています。
 そこでご住職のあたたかなご法話に耳を傾け「私のためにひと時もお休みになることなく、お立ち下さる阿弥陀様。心配するな。心配するな。と喚び続けてくださる阿弥陀様。」のお慈悲を知らされていくのでした。
 そして、50歳の時に九間四面の浄光寺の本堂が、四年の歳月を費やして新築再建され、慶讃法要が天保の大飢饉の年である天保3年(1832)4月に盛大に厳修されたその折、お参りしていた善太郎さんは、「この善太郎、仏とも法とも知らずして、逃げて逃げて逃げ廻っている、この善太郎がために師匠寺のお御堂(みどう)をこの善太郎がために、お法を聞けよと建てて下さいました。やれうれしや。なむあみだぶつ この善太郎」と、柱に抱きつき、嬉し泣きに泣かれたそうです。
 幼少時のお母さんとの別れ、また4人の娘たちとの度重なる死別という大きな悲しみが無ければ、お寺に行くこともなかったこの善太郎さんが今こうしてご法義に、阿弥陀様のお慈悲に救われたよろこびを柱に抱きつくという姿で表わされたのです。


 そのことを、浄光寺の現ご住職は「ネパールのサイ」のエピソードを通してお話下さいました。
ネパールのサイは、死期が近づくと最後の力を振り絞って角で穴を掘るそうです。そしてその場所を去って別の場所で静(しず)かに最後を迎えるそうです。ですからその穴は、自分の墓穴(はかあな)ではなくて、雨が降るとその穴に雨水が貯まり、残されたサイや他の動物たちの水飲み場になるのです。残していく動物たちの生きる大切な場所を作って亡くなっていく。何と、ネパール・お釈迦さま誕生の国のサイは尊いのでしょう。と。
 善太郎さんがお寺にお参りするようになったのは、娘さんとの別れがご縁です。亡き4人の娘さんたちが「この善太郎を、この本堂に導いてくれた。ここに来たら安心ですよ。阿弥陀様のお慈悲に遇えますよ。」と。この娘たちのお陰で、お念仏をよろこばせていただく身にお育ていただいた。このよろこびを、少しでも多くのご縁の方にお伝えしたいとの思いから、歌や詩を書き残していかれました。