法のたより〔285〕
あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった
この言葉は、2008年7月8日に、日本テレビ系列で放映されたテレビドラマの題名の一部です。
『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった
〜カウラ捕虜収容所からの大脱走〜』
1944年太平洋戦争の渦中にオーストラリア・カウラで起きた日本人捕虜脱走事件である「カウラ事件」をテーマとしたドラマです。
「生(い)きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受(う)けず、死(し)して罪禍(ざいか)の汚名(おめい)を残(のこ)すこと勿(なか)れ」
この言葉は1941年、陸軍大臣 東条英機 によって示達された戦陣訓に記されたものです。戦前の日本でも、日清・日露戦争の勝利や武士道精神の影響により、忠義や国家のためには死をも厭わない行動が理想とされ日本軍の間で捕虜になることを拒否する思想が広まりました。
「生きて虜囚の辱を受けず」とは、敵に捕らえられて辱めを受けるくらいなら生き延びることを拒否すべきという意味です。「死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」は、死後に不名誉や罪の汚名を残さないように行動せよという戒めです。戦陣訓の全体としては「生死を超越し任務を完遂せよ」という精神を表わすものの一部です。
連合国軍は、「ジュネーブ条約」によって捕虜を手厚く保護していました。カウラの日本人捕虜収容所では1,104人がキャンプBに収容され、捕虜の中には海軍・陸軍の兵士、航空兵、商船員などさまざまな背景を持つ人がいました。食事も美味しく、野球をしたり快適に過ごせる環境でした。
しかし、捕虜の人員の増加に伴い、将校・下士官を除く兵士700名を、400km西に位置するヘイ(Hay, ニューサウスウェールズ州)の第8捕虜収容所に移すという計画が持ち上がりました。日本兵にとって、下士官と兵士の信頼関係は厚く結ばれたもので、全体一緒ならば良いが、分離しての移送を受け入れることができない日本兵は、それを契機として捕虜収容所からの脱走を計画することになったようです。
日本人捕虜は1944年8月4日午後5時、事務所の幹部10名と班長40名を集めてミーティングを開き、要求を受け入れるか、反対して脱走をするかの議論を行ったそうです。
中には「九死に得た一生だ。この命を大切にしたい。日本へ帰りたいし、肉親に会いたい。」といった発言をした者もいましたが、誰も賛同する者はおらず、やがて強硬派班長が立ち上がり、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」「貴様らそれでも軍人か。非国民は俺が始末してやる」と喚(わめ)き、場の空気が一変したといいます。その後、捕虜全員での多数決投票を行う事になり、その際に、トイレットペーパーに「移送受諾か否か」を○×で行ったそうです。「脱走に非参加」と投票した者も少数いましたが、脱走することに決定したのでした。
1944年8月5日午前2時過ぎ突撃ラッパを合図に、将校と入院者含め不参加者118人(一説では138人)を除く900名の日本兵は集団脱走を決行しました。脱走時、武器は身近にあるフォーク・ナイフなどの金属製品、野球バットといったものに過ぎず、機関銃が配備されたオーストラリア警備兵に対抗できる状態ではありませんでした。
日本人234人が死亡または自決、108人が負傷し、オーストラリア側でも4人が死亡しました。
1962年、収容所跡地にカウラ日本人戦死者墓地が建設され、カウラでの死者に加え豪州他地域での戦死者を加えた522人が埋葬されました。
1979年、カウラ日本庭園が戦後の日豪友好と平和を象徴する施設として造られ開園しました。世界各地で日本庭園を手掛けた造園家・中島健が設計し、山、滝、川、池などを使って日本列島の風景を抽象的に表現する回遊式庭園です。
こういう出来事があったということを知っておられる方も少ないと思います。
淨教寺コーラス・コールピュアランドをご指導いただいている荒井敦子先生から
この「カウラ事件」のお話を教えていただきました。先生ご自身が毎年8月5日にカウラの墓地で法要を営み「ふるさと」を歌っておられるとの事。
表題に示した『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった〜カウラ捕虜収容所からの大脱走〜』のドラマをDVDで、ぜひご覧いただき戦中に思いを馳せ、お彼岸を迎え先人をお偲びいただけたらと思います。