奈良 淨教寺

2023年(令和5年)5月の法話

のりのたより〔245〕

*親鸞聖人の宗教 3、教行信証

今年は、親鸞しんらん聖人しょうにん御誕生ごたんじょう850年・立教りっきょう開宗かいしゅう800年の節目の年です。3月29日から5月21日まで西本願寺にて大法要が勤まります。改めて親鸞聖人を讃仰させていただきたく、3回(3月、4月、5月)にわたって稲垣瑞剱先生の「親鸞聖人の宗教」を掲載いたします。今回は第3回です。御熟読ください。

親鸞聖人しんらんしょうにんの宗教 3 稲垣瑞剱いながきずいけん

大無量寿経だいむりょうじゅきょう』の中に、佛法を聞こうとするものは、「謙敬聞けんきょうもん奉行ぶぎょう」でなければならぬ、ということが説かれてありますが、親鸞しんらん聖人しょうにんはまことに謙敬けんきょうにして、聞いて、之を実践されました方であります。『歎異抄たんにしょう』にも御自身の信心を告白せられまして、

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに、別の子細なきなり」

と仰せられました。「ただ念仏して」の味は、甚深じんじん微妙みみょうでありまして、『教行信証』一部六巻のはらわたであり、眼目がんもくであります。

如来のことばは、真実であり、甚深じんじんであり、秘密の蔵であります。「心」と「佛」と「衆生しゅじょう」との実相じっそうを悟られ、宇宙と人生の秘密を見究め、しかも大慈悲よりお説き下された大聖釈迦牟尼しゃかむに世尊は、佛陀ぶっだであり、覚者かくしゃであり、大導師であります。吾等の如き日日五欲ごよくちまたをかけめぐり、三毒さんどくほのおを高く燃やしておる凡夫とは、智慧に於いて、慈悲に於いて、雲泥の相違があります。

「よき人」とは、師匠法然聖人ほうねんしょうにんのことであります。深く佛・法・僧の三宝に帰依しておられます聖人は、師匠法然聖人のお言葉を、直に如来の金言きんげんと仰ぎ、そのまま受け入れられたのであります。信心はここに確立するのであります。法然聖人は善導ぜんどう大師だいしのお言葉を信じ、善導大師は龍樹りゅうじゅ菩薩ぼさつ天親菩薩てんじんぼさつ曇鸞どんらん大師だいし道綽どうしゃく禅師ぜんじのお言葉を信じて、『無量寿経むりょうじゅきょう』を信ぜられたのであります。いかに高い、貴い真理でも、之を体得した人の言葉によらなければ、信ずることは出来難いのであります。

親鸞しんらん聖人しょうにん法然聖人ほうねんしょうにん

「自分はただ念仏して弥陀に助けられるのだ。」

と云われたときに、直ちに之を信じ、受け入れられました。この謙虚な態度こそ、龍樹りゅうじゅ天親てんじんのごとき大菩薩だいぼさつと同一の純粋信心に入らしめたのであります。そこで聖人は、

「親鸞は弟子一人ももたず、御同朋おんどうほう御同行おんどうぎょうである。」と仰せられ、また、

「さらに親鸞めづらしき法をもひろめず」とも仰せられ「正信偈しょうしんげ」には、その最後に、

「唯だ斯の高僧の説を信ずべし」とのべられておられます。

親鸞聖人 展覧会 京都国立博物館 (5月21日まで)

親鸞しんらん聖人しょうにんは、謙虚にして、大信心を得られまして、この大信心の眼を以て、大蔵だいぞうきょう及び高僧方の著書を御覧遊ばされ、ここに比類なき読経眼と、高邁こうまいにして厳正なる批判力とをお持ちになったのであります。

聖人御一生の大著書、立教開宗の宝典であるところの『教行信証』は、よくそれを物語っております。まあこの書物に於いて宗教の真実性、真理性なるものが、如何いかなるものであるかがわかります。『教行信証』の一面からみれば、古今に比類なき、乾坤けんこん独歩の宗教哲学であるということが出来ます。

蓮の葉に水玉
アリウムトリケトラム

『歎異抄』はもとより結構なお聖教しょうぎょうでありますが、『教行信証』の如く、大蔵経だいぞうきょうを読んで、釈迦如来の真精神をつかみ、浄土真宗として打って出られた、雄大なる立教開宗の一大組織がありません。また、「唯だ真実の信心を以て、大涅槃ねはんに到り得るむね」を立証したる歴史的展開の経路が明らかにせられてありません。また分量に於いて、『歎異抄』は『教行信証』とは比較になりません。

私は此の六十余種の「お経」や「註釈」や、菩薩ぼさつの「論文」を、一大系統のもとに集められた『教行信証』は、大蔵経の縮図であると、申し上げたいのであります。

昔から宗教書は沢山たくさんありますが、親鸞しんらん聖人しょうにんほど、純粋の信仰と、不純なる信仰とを見分けて、厳正なる批判を下し、自力の信心と他力の信心とを明白に弁別され、純粋他力の信心を、細に入り、微に入って、之を論じた人は他に無いと思います。いろいろの信仰のうちで、純粋にして一味なる信心は、斯かくの如きものであると明示せられた書は、実に『教行信証』であります。

また佛教のみならず、佛教以外の宗教をも、之を取って批判を下し、かかるものは「」の宗教である、かかるものは(ごん)の信心であると、断定を下されましたのは、また実に『教行信証』であります。

今日「新興宗教」の名のもとに、幾百、幾千という多くの宗教が急に興ってまいりましたが、それらを一概いちがいに皆悪いとは申しませんが、世界の平和を目指し、我が愛する善良なる同胞を、真理を以て、真実を以て導かんとするならば、是非とも『教行信証』を熟読して、人をして誤らないようになされたらよいと思います。

藤の花

また新興宗教に入らんと思われる方々も『歎異抄たんにしょう』や『教行信証』を読むとか、専門家について聞くとかして、自分でも、宗教選択の批判力を養って、然る後に新しい宗教に入られることが、最も安全なる方法ではなかろうかと存じます。

親鸞しんらん聖人しょうにんは、各宗の教義をしっかり研究せられ、みずか煩悶はんもんもし、疑い切った揚句あげく、とうとうお仕舞に、他力易行の道に入られたのであります。

親鸞聖人が最も警戒されました点は、「独断」であります。古来の「経典」も読まず、「論文」も、「註釈書」も研究せずして、単に自分が考えて、浄土真宗という一宗を打ち建てられたのではありません。聖人は、経・論・釈の中に含まれてある深遠な意味を汲み取って、これを一層明らかにあらわし、その玄妙なる真理を、更に進展し、発展させられたのでありまして、個人的独断の後は親鸞しんらん聖人しょうにんには見られないのであります。

大和橘(やまとたちばな)にナミアゲハ

誰もかれも、世を挙げて、「発心ほっしん修行しゅぎょう菩提ぼだい涅槃ねはん」とか「教・理・行・果」とか云って、「行」でなくては涅槃に到ることが出来ないと思われていた長い歴史の型を破って、親鸞聖人は、「一念の淨信じょうしん」、すなわち「純粋の信心」一つで立派に涅槃に到ることが出来ると道破され、それを高調されたのであります。それが独断でないことを、インド、中国、日本の高僧の説を挙げて論じられました。

また聖人は、釈迦如来が一番初めに説かれたという『華厳けごん経』を引かれて、「信巻」に、

「華厳経にいわく、此の法を聞きて信心しんじん歓喜かんぎして、疑いなき者は速やかに無上道を成らん。諸の如来と等しとなり」

と述べられ、またお釈迦様にお説きになったと云われておる『涅槃ねはん経』を引かれて、同じく「信巻」に、

「又いわく、或いは阿耨多羅三藐三あのくたらさんびゃくさん菩提ぼだいを説く、信心を因と為す。是の菩提ぼだいの因

また無量なりといえども、若し信心を説けばすなわちすでに摂尽しょうじんしぬ。」

と。このように、聖人は、初め『華厳』より、終わり『涅槃経』に至るまで、純粋の大信心一つで涅槃に到り得ることを立証されました。

聖人の御眼には、お釈迦様が世に出られたのは、ただ弥陀の本願海を説かんが為であると、見られたのであります。それを「正信偈しょうしんげ」に

「如来に興出したまふ所以ゆえんは、唯だ弥陀の本願ほんがんかいを説かんとなり。」

と述べておられるのであります。まことに「信」の一字一宗を振るうものは浄土真宗であります。

親鸞しんらん聖人しょうにんは、慈悲深い、やさしいお方でありますが、その識見と、道を知らざる間違った学者に対する痛烈なる批判と、人の道をわきまえざる者どもに対する烈烈たる義憤をらされているところは、日蓮上人に劣らぬものがあります。

道を愛する青年諸氏、善男善女、並びに苦悶くもんを抱いておられる人々は、速やかに来られて、道を得て歓喜と光明の生活に入ることをおすすめ申し上げます。三回に亘りお読み下さいまして有難うございました。