法のたより〔251〕
*七里恒順和上(1835~1900)
九州・博多に行かれる機会がありましたら、ぜひ「博多の萬行寺さま」をお訪ねください。浄土真宗の明治の大德「七里恒順和上」ゆかりのお寺です。
七里恒順和上(1835~1900)
七里和上は、住職の実家、新潟県長岡市飯塚・明鏡寺に天保6年(1835)7月11日明鏡寺第13代、井上宗鏡の次男として誕生しました。翌年天保7年は「天保の飢饉」、黒船渡来などで世の中は混乱、騒然としていました。
弘化2年(1845)11歳で得度。14歳から僧郎勧学、15歳から宣界司教、20歳から九州に移り、月珠勧学。23歳から宣正師、25歳から田丸慶忍師、28歳から南渓師に師事し30歳まで16年間、刻苦勉励の修学時代を過ごされます。
元治元年(1864)11月、博多の萬行寺に赴かれ、翌、慶応元年(1865)10月27日萬行寺第19代住職に就かれます。
慶応3年(1867)私塾「甘露窟」を再開し教化活動を開始され、明治9年(1876)には百日講を作り、師匠の勧学・田丸慶忍師を招いて近隣の僧侶の教育にも取り組まれました。以後、要籍会をつくり道俗の教化に当たり、また、恵以真会、開明会を起こして庶民から知識人に至るまで広く教化に当たります。そして明治14年には、6歳から15歳までの男子・女子を集めて「教童講」を開き、子供の仏教教育に当たり、坊守講を設けて各寺の坊守の教化にも当たりました。このようにあらゆる人々への布教活動に努め一日も法話を欠かすことは無かったそうです。
当時は、明治維新の中、神仏分離令による廃仏毀釈の流れが押し寄せ信仰上からも混乱と動揺が僧侶をはじめ門信徒をも襲いました。その中で七里和上は危機感を覚えられ、猛然と立ち上がり、お念仏繁盛に邁進され「お念仏しなされや」と、信心を頂いて、報恩の念仏行に勤しむことを強く勧めていかれました。
仏教批判の福沢諭吉と対論し仏教の正当性を述べ、諭吉が七里和上の博学、人格に敬意を払ったと「梅林閑談」にその記録が見られます。
七里和上の信仰は円熟し、「仏を拝むなら本願寺さまへ参れ、法を聞くなら萬行寺さまへ参れ」と言われるほどで、門前には聞法のための宿が軒を連ねたそうです。
萬行寺の自慢は、随時お聖教を50冊揃えており、何人の学生が来てもすぐに勉強できる環境が整っていたそうです。質素に心掛けられ、常に木綿の白衣、法衣も切れ破れた物を糸で綴って着られ、お念仏一筋の日常であったそうです。
明治26年(1893)病気で倒れられますが、病床よりお同行を導かれました。
明治33年(1900)1月29日未明、眠られるが如くに往生の素懐を遂げられました。享年66歳。
七里恒順和上のエピソード
ある時、寝ておられるところに泥棒が入り「お金を出せ」との声に、「床の間の箱の中にある」と告げると、泥棒はそのお金を持って逃げようとしました。そのうしろ姿に向かって「そのお金はご門徒様から阿弥陀様に御供え下されたものだから、本堂の阿弥陀様にお礼を申してから帰ってくれ」と告げたそうです。
後日、警察から泥棒が捕まったとの連絡が入り、警官が和上に「泥棒が入ったなら、届け出てもらわないと困ります」と述べると、和上は「盗られたつもりはない。お金が欲しいとやってきたものは居る。その者には本堂の阿弥陀様にお礼を申してから帰れと申し述べたことはあります。」との返答。刑期を終えて出てきた男を、縁あるものだからと萬行寺の会計係りとして身請けをして雇い入れます。感激したその男は立派に更正し、生涯ミスすることが無かったそうです。
お呼び声に安心する「七里和上言行録」より
和上曰く。必ず助けるのお約束のお言葉を目的にしたが信心じゃ。故にお浄土へ向かって、参れるか参れぬかと案じてみては千年を経っても間違いないと安心の出来る時はない。参れるか参れぬかを案じるよりは、お助け下さるるか下さらぬかを思うて見なさい。そうすると何時思うて見ても、如来様のお約束はそのまま助けるの仰せの外はない。
故にいつ思うて見ても、如来様のお約束はそのまま助けるの仰せの外はない。故にいつ思うて見てもお助けの間違わぬ事が思われる。如来様の仰せを除けて置いて浄土に向かって、参れるか参れぬかを考える故、しかと安心が出来ぬ。それは向き処を違えて居るのじゃ。安心は浄土へ向かって参れるに間違いないと安心するのではない。如来様のお呼び声に向かって安心するのである。助けてやる。参ることを引き受けてやる。というお呼び声に安心するのである。