法のたより〔252〕
*念仏しなされや
*七里恒順和上(1835~1900)常のお言葉
江戸時代中期ごろ、北陸地方で「無帰命安心」「十劫秘事」(「十劫の昔に阿弥陀如来様は仏さまと成られておはたらきくださっているのだから、私たちは何もする必要がないのである。何にも帰依する必要はないのである(無帰命)」)と呼ばれる親鸞聖人の教えを間違って理解する人々の信仰がありました。
その誤りを正すため本願寺能化第6代、功存は、
①口に南無阿弥陀仏と称え(口業)、②心に阿弥陀仏を想い(意業)、③身に礼拝すること(身業)、と言われる「三業帰命説」を主張し、異安心を諭しました。さらに、第7代能化、智洞は学林(龍谷大学の前身)において『無量寿経』の講説中に「三業帰命説」を唱えたことで一層、浄土真宗の正しい安心についての問題が拡大して行きました。
しかし、親鸞聖人の教えは、
「涅槃の真因は唯信心をもってす」(教行信証、信巻)
と、ありますから浄土往生の正しき種は、信心にあります。
この「三業帰命」の間違いに声を上げたのが広島の大瀛和上です。
智洞能化と大瀛和上との間で問答の応酬がありましたが、本願寺でも収拾することが出来ず、江戸幕府のおさばきを受ける事になりました。
大瀛和上は、「涅槃の真因は唯信心をもってす」の「唯」は、2つも3つもない、ただ一つである、なぜ「三業帰命」が必要なのかと「唯」の意味問いただし、智洞を論破したのでした。
その結果、「三業帰命」の間違いが正され「信心正因称名報恩」の教えが護られました。
この「三業帰命」と「信心正因」の対決した10年にわたる三業惑乱によって、「三業帰命」は退けられましたが、今度は帰命の一念にふれることを恐れるようになり、浄土真宗の肝要である「たのむ一念」さえも軽んじられ、またもや「無帰命安心」の状態になりつつあった明治の時代に出られたのが七里恒順和上でした。
信心獲得の上の称名念仏を大事にして、日々を過ごす事の大切さを「念仏しなされや」とお諭し下さいました。
この肝要のところを、七里和上は以下のように述べて
四門の水際
第一の求法心(仏法を求めるこころざし)は、信前なれば、最も熱心に一生懸命になりて、法を求めて聞かねばならない所を、第二の安心の「このままながらのお助け」を混交して、居睡り半分に聴聞したり。また第二の安心は、聞信の一念に易く決定のできるのを、第三の報謝をこれに混同して、相続心の喜ばれるとか、喜ばれぬとか、称となえられぬとかと、後々の相続を以って、初帰の一念の安心に混合したり。また第三の報謝は、行住坐臥、寝ても寤めても称名念仏せよとあるのに、返りて安心のこのままながらを混交して、称えても称えなくともよいと、心得あやまるものあり。第四の処世も、真宗信者は、特に無宗教者よりもその品行を慎み、職業に勉励し、地獄行きの人と、極楽参りの人とは、違わねばならぬのに、これに機の深信の我が身は悪しき凡夫じゃものを混雑して、その身の行いを慎むことを軽んじて、注意せざるものあり。これみな誤りなり。(「七里和上法話聞書」より)
と、親鸞聖人の教えの「信心正因・称名報恩」の正しき理解を丁寧にお示し下さいました。