奈良 淨教寺

2026年(令和8年)5月の法話

のりのたより〔281〕

人は去っても 出会える世界  

安楽浄土(あんらくじょうど)にいたるひと
五濁悪世(ごじょくあくせ)にかへりては
釈迦牟尼仏(しゃかむぬぶつ)のごとくにて
利益衆生(りやくしゅじょう)はきはもなし

          (親鸞聖人『浄土和讃』)
(意訳)阿弥陀仏の浄土に往生した人は、 さまざまな濁りと悪に満ちた世(私の住む世界)に還り来て、 釈尊と同じようにどこまでもすべてのものを救うのである。


人は去っても その人のほほえみは去らない
人は去っても その人のことばは去らない
人は去っても その人のぬくもりは去らない
人は去っても 拝む手の中に かえってくる


と、中西智海先生は教えてくださいます。

淨教寺では亡き方のご命日にお参りする「月参り」と言う習慣があります。そこで一緒におつとめをして、あとお茶をいただきながらお話します。尊い時間です。
そんな中で先日ご主人の法事を済まされた奥様がお話してくださいました。
「主人を亡くしたことは今でも辛いです。今でも生きていてくれたらと思うことも何度もあります。でもこうして主人をなくしたことをご縁として、淨教寺さんとご縁が出来、お寺のご法座にお参りするようになってお友達もたくさん出来ました。いまこうして私が楽しく過ごすことができているのは、当たり前でなくて、主人が仏さまとなって導いてくれているからなのだと思います。」
このようにお話してくださいました。
亡きご主人が結んでくれた仏縁を大切にお話くださいました。
ご主人をなくされた悲しみは消えることはありません。それは生きている限り消えることはないでしょう。
しかしご主人を仏さまと敬われているからこそ今ある人生の出会いを、ご主人のお陰と感謝されている姿がありました。
お浄土という世界があるからこそ、先に旅立っていかれた方を仏さまと敬い、今私があるのは亡き主人が仏さまとなって私を導いてくれているからだと悲しい出来事が仏縁によって大切な意味を持つのです。大切な意味を知らされたからこそ、その悲しさや寂しさは消えなくとも乗り越えていくことが出来たのでしょう。
阿弥陀様のみ教えは、悲しさを乗り越えなさい。寂しさを消していきなさい。そんな教えではありません。
阿弥陀様は私たちが「南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ」とお念仏を申すところに「さみしいね、かなしいね、でもあなたは一人でないよ。私が一緒にいるよ、そして先だって行ったご主人も南無阿弥陀仏としてお念仏の中にご一緒してくださっていますよ」と寄り添ってくださる仏さまです。
悲しみは悲しみのままでいい、寂しさは寂しいままでいい。同じお浄土へと歩む人生をともに歩んでいこう。寂しさ悲しさをそのままでは終わらせない、とご一緒くださっているのです。
先立っていかれた方は死んで亡くなってしまわれたのではなくて、仏さまとなって今も私とご一緒くださり、私を仏法聴聞する身へとお育て下さっているのです。
その南無阿弥陀仏のお念仏のおはたらきを、み教えを、お聴聞してまいりましょう。

御衣黄桜(ぎょいこうさくら)
タラヨウジュの花
シラーペルビアナ(オオツルボ)