法のたより〔282〕
念仏者 小林一茶(いっさ)(1763~1828)
5月下旬のお寺の台所での出来事です。一匹のハエがどこからとも無く入ってきて、追い払ってもなかなか出て行きません。そのときに坊守が写した写真です。
一茶さんの俳句に「やれ打つな 蝿(はえ)が手をする 足をする」という有名な句があるね。と話していました。この句は現代語訳すれば「おい叩くな。蝿が手をすり合わせ、足をすり合わせ命乞いをしているではないか。」と言う内容の句です。浄土真宗門徒であった一茶さんらしい慈悲深い一句です。台所のハエはやっと数日経った朝、窓から外に出て行きました。
翌朝6時からの西本願寺のユーチューブ配信で晨朝(じんじょう)(朝のおつとめ)参拝をしていましたら、その法話の中で、島根・永照寺の吉川 恭順ご住職が一茶の話をしておられました。
小林一茶は「松影の句ありて のち松影の句なし。」と、言っております。一茶は自分の句の中で「松影」の句が一番だといっているのです。最高傑作だと言っているのです。しかし後世の人は「松影」の句は誰も評価しないのです。皆さんで「松影」の句をご存知の方はおられますか?誰もおられませんか。一茶はこれが一番の句だと言っております。
それは「松影(まつかげ)に寝(ね)てくふ 六十(ろくじゅう)よ州(しゅう)かな」です。
「松影」それは「松平」です。「徳川幕府」です。徳川幕府を讃えている句のように表面は見えますから、後の人は誰も評価しません。
しかし、これは一茶50歳の時の2月の句であります。日記を見ますと「松」の句がずらっと並んでおります。最初は讃えているようにも見えますけれども、後半の句は「ケチョン、ケチョン」であります。「苗松(なえまつ)や、果(は)てはいづくの餅(もち)の臼(うす)」
いよいよこれが「仏(ほとけ)ともならで うかうか老(お)いの松(まつ)」とも詠んでいます。
一体それは何をあらわしているのか?
一茶はこの本願寺にも参っております。その中でいろんな法話を聞いているでしょうが、その中に一休さんと蓮如さんとのやり取りの話を聞いておられたようです。本当にあったかどうかはわかりません。後から作られたお話かもしれません。その中にこんなやり取りがありました。
一休さんから長い長い手紙が届いた。そこには「あれして、これして。あれして、これして。どこまで行ってもあれして、これして。ずっと行ってもあれして、これして。それで最後まで行って、とかく人間とは忙しきものかな。」宗純(そうじゅん)。蓮如さま。
と書かれていたそうです。
それに対して、蓮如さまのお返事が「寝て食って、寝て食って。寝て食って、寝て食って。寝て食って、寝て食って。・・・。(どこまで行っても)寝て食って、寝て食って。そして最後、人間とは死ぬものなり。」蓮如。宗純殿。
言ってみれば、ここにヒントがあるように思います。寝て食って、寝て食って。一生を終わって行く。それであなたは大丈夫か?それがそのまま
「仏ともならで うかうか老いの松」の句となったのでしょう。仏に成ろうともせず、うかうか日暮をしている。何をより所としてあなたは人生を歩んでおられるのか?
そのことは念佛者である私たちに問いかけ、大切なことであるぞ。とお伝えくださったことと受け止めております。
以上のようなご法話でした。
一茶は、浄土真宗の信仰が篤く、親鸞聖人の教えが根強い土地柄である信濃(長野県)の柏原で中農の子として生まれました。小さい頃、母親を亡くし、継母との軋轢の中、江戸に奉公に出、俳句の道を究めて行きます。50歳にしての初婚。三度の結婚、四人の子を幼くして失うという逆縁の中で、聴聞に励み、父・弥五兵衛のお念仏を喜ぶ姿に感化され親鸞聖人のみ教え(真実信心)の世界に出遇い65歳の生涯を終えます。
一茶は一生のうちに二万作を越える俳句を作りました。
その中で仏縁の深い句を紹介します。
「涼(すず)しさや 弥陀成仏(みだじょうぶつ)の 此(こ)のかたは」
(正信偈六首引の親鸞聖人のご和讃を喜ばれた句)
「本堂にぎっしりつまる 藪(やぶ)蚊(か)哉(かな)」
(藪蚊におとらず本堂一杯に熱心に聴聞する門徒たち、わたし一茶もその一人です)
「なむあみだ 仏(ぶつ)の方(かた)より 鳴(な)く蚊(か)哉(かな)」
(蚊の羽音も、阿弥陀さまのお呼び声に聞こえます)
「堂(どう)の蠅(はえ) 珠数(じゅず)する人の 手をまねる」
(本堂に入ってきた蠅よ、おまえも合掌して法話を聞きにきたのか。)
「蠅(はえ)一(ひと)つ 打(う)ては(ば) なむあみだ仏(ぶつ)哉(かな)」
(殺生してしまった。慚愧(ざんぎ)の心からお念仏)