奈良 淨教寺
親鸞聖人は、承安3年(1173) にご誕生になり、9歳で出家得度され、比叡山で学問と修行に励まれました。しかし、迷いを離れる道を見出すことができず、29 歳の時、聖徳太子の示現を得て、源空(法然)聖人に遇われ、本願を信じ、念仏する身となられました。
35歳の時、「承元しょうげんの法難」により、越後にご流罪となられますが、後にはご家族を伴って関東に移り、人びとと生活をともにし、自信教人信の道を歩まれました。晩年は京都で、ご本典(教行信証)の完成に努められるとともに、三帖和讃さんしょうわさんなど多くの著述にお力を注がれ、90歳を一期として往生の素懐を遂げられました。
『淨教寺由緒略記』によると、淨教寺開基の行延ぎょうえん法師は河内国八尾の庄司真野将監行延ゆきのぶといい、知勇兼備の武士であったが、浄土真宗開祖親鸞聖人の直弟子となり、寛元2年(1244)3月出家して、法名を行延と賜う。
十一世行心ぎょうしんの時(1530)大和郡山市西城村に移る。戦国の末、石山本願寺籠城の際、十二世行春の忠節を尽した功により、天正19年(1591)顕如上人けんにょしょうにんから、御内仏の御本尊阿弥陀如来を拝領した。
慶長8年(1603)徳川家康公から南都上三条の御赦免の寺地を頂戴して、淨教寺を現地に移した。西本願寺の役寺として南都七大寺や市中外寺院、奈良奉行、小泉城主片桐氏などへの連絡にあたっていた。
明治21年(1888)6月5日淨教寺本堂にて、奈良県知事、要人、市民500名を前に「奈良の諸君に告ぐ」という講演を行い、奈良の宗教・美術・文化の重要性とその保護の必要性を訴えた。
明治18年(1885)10月5日生(姫路市)~昭和56年(1981)1月13日寂(神戸市)行年97歳。関西学院高等部卒、主に本願寺関係学校成徳学園校長、理事長として教職に就かれて52年余、幼少の頃から学問にはげまれ漢籍、英文学、仏教学、東西の哲学のほか、とくに教行信証を中心とした真宗学や安心(あんじん)について、その深奥をきわめ、著述に伝道にその生涯を捧げられた。主な著書に『教行信証大系』全7巻、『真宗玄義』、『死の解決』2巻、『世界の光・釈尊伝(英文)』、『英文歎異抄』、『安心の極意』全10巻ほか。
宗教とは、宇宙人世の根本的解決なり。仏法第一、親に孝行、人には親切。怨みと苦しみは、欲があるからだ。かぎりなき 大そらの智慧 かぎりなき 大うみの慈悲 われ安し つみもさわりも あるがままにて。いのちまさに終わらんとする時 のぞみ洋洋たり。雲にいる 鳥見るたびに思うかな 願に乗じて天翔ける日を。「瑞剱先生のおことば」より