奈良 淨教寺

アーネスト・F・フェノロサ博士
Ernest Francisci Fenollosa
1853-1908(嘉永6年−明治4年)

アメリカ・ハーバード大学出身の哲学者・経済学者・美術愛好家(1853〜1908)・明治11年〜19年(東京大学教授)

明治11年、聘に応じて来日、東京大学で哲学・政治学・理財学を講じた。
同19年まで在職。そのかたわら日本美術を愛し、その研究に力を注ぎ、日本美術を再評価し、とくに日本画の復興に尽力した。同23年には勲三等瑞宝章をうけた。帰国後も東洋美術・哲学・文学の研究につとめ、ボストン美術博物館東洋美術管理者にもなった。ロンドンで没したが、生前に仏教に改宗していたので、骨を大津の三井寺法明院に埋めた。

フェノロサは、帰国のまえの明治22年に『日本美術論』を書き、そのなかで、奈良・大和の人に、その郷土はヨーロッパの古典世界とおなじである。そこにある美術品も、まさにギリシア・ローマの美術品とくらべてよいことを強調した。その著書発刊の前年に、淨教寺で、同主旨の講演をしているのは意義深いことである。

『…今日、この奈良に存在せる所の古物は、独り奈良一地方の宝のみならず、実に日本全国の宝なり。…世界においてまた得べからずの至宝なり。故に余は信ず。この古物を保存護持するの大任は、すなわち奈良諸君のよろしく尽すべきの義務にて、また奈良諸君の大いなる栄誉なり…」「奈良の諸君に告ぐ」より引用
博士は岡倉天心と共に荒廃する仏像・寺院の復興と発展に力を注いだ。

奈良の諸君に告ぐ!

明治二十一年六月五日 アーネスト・F・フェノロサ
淨教寺本堂での講演要旨 通訳 岡倉天心
第一、 美術及び宗教に関する奈良と羅(ロー)馬(マ)の比較
第二、 奈良と中央大陸の関係
第三、 古物活用の要訣
第四、 美術の真価
第五、 古物保存の注意

知事及び諸君、回顧すれば一周年前、余は欧州ローマの都府に遊び古物の研究をなしたり、然(しか)るに今また、日本のローマなる、此(この)奈良に来り、古物取調べに関し、諸君と相見るの栄を得たるものは、もことに偶然ならざるものあるが如く、余が深く歓喜するところなり。そもそも、美術と宗教に関し奈良はローマと何ぞその事の相似たるや。かのローマは今日のヤソ教(キリスト教)の古寺院多く存在せり。ローマは有名なる帝都なれども、一旦亡滅に帰せしより後は寥々として世に知れざることや久し。その隆盛の時に当りてや、人口百万の多きを有せしも、その極衰の時にありては、わずかに五千の人口をもつに至れり。この奈良の如きも、さしも有名の帝都なりしも、平安遷都の後は実に寥々の故国たるに過ぎずその形勢はローマ都府の衰時と一般の光形なり。しかれどもローマは奈良になき所の、非常なる好機会に遭遇するを得たり。好機会とは何ぞや。ローマ法王と中央ヨーロッパの諸王と連合し、ローマを以て中央ヨーロッパの都府となしたることこれなり。但し、奈良の如きは再び政権の中心たるを得ずといえども、なお宗教に関しては要用なる中心の地位をもちたり。而してローマが、政治上に、この幸福を有せしのみならず古昔の事物を探究して歴史宗教共に大いなる影響を及ぼせり。その故は、ローマに湮滅(いんめつ)せる古代の遺物を探究して歴史宗教共に大いなる発明をなし、文学風俗の改良を図ることを得たればなり。

ローマは四百年来、あたかも世界の貴重物を保存せる宝庫の如き有様なりし、而して、これを利用したるものは後世の人なり。この古物を研究するの流行のびて欧州の大陸に波及し、遂に開花の性質を変改するに至れり。故に、現今欧州に行わるるところの風俗及び宗教は、みな当時に発明したるものによりて興りたるなり。今日の奈良は、日本に向って、このローマたるを得べきや否やは、目下推究すべきの一要問題なりとす。
今この奈良に残り伝わるところの古物の思想は全く後人の思想になきところのものなり。何となれば近来こそ、ようやく古物をも探究し、この奈良の有様をも探知したれ。徳川時代の人は奈良は如何なるものなるや、如何なるものが奈良に存するや茫乎として、これを知らず。三百有余年を経過せり。故に古人の思想は如何なる思想なるや。夢にだも知る能わざりしなり。この時間、奈良の古物が世に知られざりし有様は、あたかもローマの古物が土中に埋もれていたるの時と一般なり。もし、正倉院の宝庫にてもなかりしならば日本古代の開花は如何なる有様なりしやを知るに、ほとんど由なかるべし。
奈良はローマが復古せし時の如く再興してただちに、その影響を全国に及ぼすが如きは望むべからざるも、追々古代の事物を探究せば、その重なるものの内には日本の制度その他久しく廃絶せし事物を発明復古して、遂には世上に革新の功を及ぼすことあるべし。故に今日の要務は第一に古人が奈良の開明を先導せし事業の精神は如何なるかを考究せざるべからず古代の遺物によって、これを見る時は古人が生活の有様は如何なる度にまで達したりしやを知るに足るべし。顧うに日本開明の遠因、すなわち文明東漸の原因はギリシァの歴山帝が東征して文明の種子を印度に遣わしたるに起り、それより支那高麗を経て日本に伝えたる証述は歴々として、微するに足る古代日本人の美術思想の純粋は全くギリシァ美術の純粋と同一轍なりし事はこれを今日に存在せる銅像彫刻の精妙に微して照々見るべし。その彫刻は、すなわち其人の性質思想を表示して、当時の美術いささかも欧州に劣らざるを見るに足れり。アジア佛像的美術は、この奈良に於て完全せりというも決して溢言に非らざるを信ずるなり。
そもそも奈良は独り宗教と美術の上のみならず、その他歴史上にも中央大陸と大なる関係をもてり。その故は、中央アジアの諸国遠きペルシャの如きより文明の種子を持来し、この奈良の装飾をなしたり。しかるに、当時文明の種子を持来したるこの諸国は今日如何の有様なるやというに多くは亡滅して存せず。あるいは今日に探究の縁なく、あるいは戦乱革命を経て旧時の面目を存せず。当時の事物は独り日本にのみ存在せり。故に当事の事物を見んと欲するものは、日本の奈良に来らざれば、これ見る能わざるなり。故に正倉院の宝庫等に入りて、古代の遺物を見るは、あたかも欧州の学者が地中より古代の物を掘出して、これを見るに異ならず。実に奈良は、中央アジアの博物館と称して不可なきものなるべし。今日日本が奈良の古物を調べて古代の事を発明するは欧州の学者がローマの古物を調べて古代の美事を発見したるものと何ぞ択(えら)ばん。
しかりといえども、奈良に住居する諸君はいたずらに奈良をして学者社会の古史調査場となすことを甘んずべからず。よろしく更に進んで美術復古の方針となり、将来進歩の基本となりて以て、今日を支配し、利益を世上に及ぼさざるべからず。今日遺物調査の機会に投じたるは、誠に天の賜ものと尊重せざるべからざるなり。薬師寺、法隆寺の銅物、正倉院の古鏡等、精巧微妙の物を見ては益々奮発し独り古人の技倆を疑似するに止らず古人が創始せし時の精神にならい歴史家及び歌学者等も美術の上に於て古人に劣らず一層上流に進まんことを務めざる可らず。又、宗教の上に於ても、言わんと欲するところありといえども、今直ちに論じ難きところあるをもって、姑くこれを措くべし。ただ宗教に関して一言せざるべからざるものあり。蓋し、開明は宗教によりて成立す。宗教は人心の深き根底より起らざれば、その益なきなり。故に余は望む。この奈良の諸君は僧と俗とは問わず佛法の純情高尚なるところによりて、更に宗教を興起せんことを如何なる宗教にもせよ広く全国に普及せざるべからざるなり。希くは諸君が、更に生活の度を高潔にし東洋人がオウム的の開化に熱心し欧州人の口真似のみして日本人たることを嫌うが如きの愚陋(ぐろう)なることを世に知らしめ、日本人たるを誇るほどの開明に進まんことを切望して、やまざるなり。

美術の上に於ても、ただ具器用精巧のみを競はず古人の高尚なる精神に及ばんことを勉めざるべからず。これ難事にあらず、一に諸君の精神如何にあるなり。余は諸君が、税所知事の賛助を借りて協心尽力以て、この志を成し併せて税所知事閣下と共に将来の美を為すの好機会あるを信ずるなり。羅馬(ローマ)すでに欧州の模範となれり。

奈良独りアジアの模範となる能はざるの理あらんや。また、只(ただ)諸君の勉むると否とにありて存するのみ。さて美術の本義は如何と言うに哲理に関して、これを説明する時は頗(すこぶ)る煩長に渉り、今夕は其時間なきを以て、いささか其大意を略言するのみ。盖し美術の美たるは人の精神上にあるものを能く調和して、これを外に形(あら)はすにあり。若し、人間世界に美術なくんば器機的となり人情野鄙(やひ)に陥り蒸気機関と一般の有様となるは古史に微して明なり。美術は何くに往くも必要にして開明の世界一日も欠くべからざる枢要物たり。然るに世人美術の真義を知らず、あるいは古物を以て美術となす者あり。若し古物なるが故に、これを貴重すといはば瓦礫の古きも宝器の古きも古物たるに於て、その差別なかるべし。又、将来に古物はなかるべし。あるいは遊戯玩弄(がんろう)の具と思える者あり。もし玩弄(がんろう)物と言はば、呉道子の画も金岡の画の筆先の戯たるに過ぎざるべし。又、富貴を飾り豪奢を示すの具と考ふる者あり。もし驕奢の装師と言はば開明政府はこれを檳斥(ひんせき)せざるを得ざるべし。宗教家は佛の威徳を示すを以て美術とし、骨董商は其流行又は価値の軽重を以て、これを論ずるものあり。この如く誤謬の世間に行われたるより、東西とも数百年来、次第に古美術の伝を失うに至れり。欧州にては輓近(ばんきん)以来美術は国の工業に重大なる関係を発明し、特に仏国(フランス)の如きは政府より数百万の金を費して、博物館を設け美術教育を奨励して大いに国産を振起するに至れり。日本の先覚者はすでに比に見る有りて美術教育の必要を論せり。日本人は宜しく彼と競争して勝ち制するを謀るべきなり。されども単に農業に依て国家経済の大勢を定めんとするを謀るべきなり。器機製造の上に於て欧米と競争せんとし又、これを為すは大いに不可なり。日本人に特有なる美術上、高尚なる思想を研磨し以て勝ち制すべきなり。然れども、この美術の完全に達するは一朝一夕の故に非ず。古来、何れの国に於ても数百年に一度ようやく茲(ここ)に達することを得るの例にして必須の境遇あるなり。その機会を得るの方法は美術教育にあり。美術教育の要は其時世と、その場所との要用を認むること第一なり。今日の必須に適して発達せざれば、その隆盛を得る能はず古代は寺院に本尊の必要ありたるが故に仏像彫刻が発達したるなり。美術の進度は常にこれを用ゆるの度に随(したが)って進退せり。

美術は器機的に非ず心の感得物なり。ヨーロッパの美術教育の幣は、その意匠を捨てて其手法のみを教ゆるにあり。その手法何程巧みなるも悪しき意匠を顕はさば、美術と言うべからずゆえに今日本にて美術を教えんには、まず意匠は如何に考うべきか。意匠は如何なるを善とするやを教えざるべからず。而して、その教育法には只一法あり。他ならず古人が顕わすところの意匠如何を見るにあるのみ。美術の妙所は規則を以て教ゆべきにあらず。ただ感得すべきのみ。古名人物を多く見れば自然に感得するを得べし。故に美術教育の第一は、古名人の遺物を多く収集して博物館を設くるにあり。みだりに集めたるのみにて錯雑して規則なければ、その益少し。故に欧州の美術博物館にては美術外の物は、これを交えず、その粋をぬき順序次第を立て、一見その要領を得るに便せり。故に如何なる貧人窮生にても就て研究するの自由を得るなり。日本に於てもこの如く、博物館を設立すること緊要なり。故に美術の模範となるべき古物は、なるべくこれを、散在せしめず一所に収集し広く有志者の観覧に供し、いわゆる蔵福家が秘蔵して一己の独楽にのみ供するが如きことあるべからず。